【絶叫杯】Hide and Seek, Hunter and Freak.①【連載】
ハチドリ通りの裏のうらぶれたアパートの外の取り付けられた鉄階段を一人の男が上っていく。灰色のコートを着た背の高い男だ。切れかけた蛍光灯が明滅して、男の顔を照らす。触ると切れそうな鋭い目が光った。
カン、カンと革靴が階段を叩く音が響く。男は三階への入り口で立ち止まった。ゆっくりと扉を開く。カギはかかっていない。何気ない調子で廊下を進む。三つ目の部屋の扉で立ち止まり、扉をノックする。
返事は返ってこない。もう一度ノック。そっとノブに手をかける。
「誰だい?」
男がノブをひねろうとしたところで、声が返ってきた。しわがれた老婆の声だ。男は親しげな口調でドア越しに話しかける。
「ああ、シンザさん。僕ですよ。ブルーです。ちょっと近くを通ったので、元気かなって」
少し間があった。
「ああ、ブルーさんか。よく来たね」
「いつものお土産をもってきたのですけれども、一緒に食べませんか」
また少しの間。部屋の中から足を引きずる音が近づいてくる。
「ああ、ありがとうね。今開けるから」
扉が開く。老婆が姿を現す。
「久しぶりですね。お変わりないですか?」
「ええ、どうもね。おかげさまで」
シンザは男の前に置かれたカップにポットからコーヒーを注ぎながら答えた。薄汚れてはいるが、きれいに整理のされた小さなダイニングだった。
「それはなによりです」
「ブルーさんは何の用で、このあたりに?」
「ええ、ちょっと人探しで」
「そうなのかい」
「シンザさんは見ていませんか? ローゼちゃんって、ほら向かいのアパートに住んでる女の子なんですけど」
シンザは記憶を探るように目をつむった。
「悪いけれど、見ていないね」
「そうですか」
さして情報を期待はしていなかったのか、ブルーはあっさりと答える。
「何を作っているんですか?」
ブルーはキッチンのコンロの上で火にかけられている鍋を見た。古びた深い鉄鍋が弱火にかけられて湯気を立てている。
「ちょっといい肉が入ったからね。お口に合わなかったかしら?」
シンザは注がれたまま口をつけられていないコーヒーを見ながら言った。
「ああ、すみません。コーヒーが得意ではないくて」
「そうだったかい? そりゃ悪かったね」
「いえ、こちらこそ。せっかく淹れてもらったのに」
ところで、とブルーはキッチンの鍋を見つめたまま言った。
「あの中に入っているのはもしかしてローゼちゃんじゃあないですか?」
沈黙が流れた。
老婆の舌打ちが沈黙を破る。荒々しい舌打ち。老婆のものとは思えない。
「GRUAAAAAAAA」
咆哮が部屋の中に響く。老婆が膨れ上がった。皺だらけの皮がはじけ飛び、堅牢な毛皮に包まれた巨大な獣の筋肉が姿を現す。口吻が伸び、口が裂ける。そこにあるのは温和な老婆の顔ではない。獰猛な狼の顔だ。人狼だ。
ブルーは立ち上がりざまに後ろへ飛びのく。
ブルーのいた空間を巨大な爪が通り過ぎる。机がなぎ倒され、椅子が砕ける。
人狼が爪を振りかぶる。それが振り下ろされるよりも速く、ブルーは懐から手を引き抜いた。その手には黒く滑らかな古めかしいリボルバーが握られている。撃鉄はすでに起こされている。ブルーは狙いを定め、引き金を引。
轟音とともに銀の弾丸が回転しながら一直線に人狼の心臓へと飛び出し、毛皮、肉、そして心臓を貫いた。
「U......GAA」
人狼は驚いたように目を見開くと、そのまま小さく声を漏らしながら倒れた。
「ああ、わかってるよ」
ブルーは虚空に向かって答える。撃鉄を起こし、もう一発心臓に銃弾を撃ち込んだ。反応はない。
「あたりまえだろ、だってシンザさんに会うの初めてなんだから」
その言葉は老婆に向けられたものではない。ここにはいない誰かに話しかけるように発された言葉だった。キッチンの方へ歩いていく。火にかけられた鍋を覗き込む。
たっぷりの泡立つお湯の中、少女の顔が恐怖に見開いた目でブルーを見つめていた。
◆◆◆
「すみません。せんぱい。ちょっとトイレいってきます」
「隣で借りて来いよ。セキ」
ホアンにセキと呼ばれた若い警官は、冷蔵庫を閉じると青い顔をして玄関へとよろよろと歩いていった。
「どしたんだ?」
脚の傾いだ椅子に座ったままブルーはホアンに尋ねた。ホアンは台所の様子をメモに取る手を止めずに答える。大柄な制服の肩越しに意外なほど繊細な字で埋め尽くされたメモが見える。
「あいつ今日がこういう現場初めてでよ」
「ああ」
ブルーは納得したように相槌を打つ。初めて師匠のマロンに犠牲者の検分に連れていかれた日はブルーもホアンも胃液まで吐いたものだった。今ではもう慣れっこになってしまったものだけれども。
「しかし、お前が新入りの指導かよ」
「後進育てねえとなって」
「年寄りみてえなことを」
「もう年寄りだよ、俺らは」
ため息を一つついてホアンはブルーに振り返る。疲れの積もった目がブルウーの目を捉える。ブルーは床に横たわる人狼の死体に目を移しながら尋ねた。
「こいつの首もらってってもいいか?」
「ん? 構わねえが。どうするんだ?」
人狼の一部を持ち帰るのは人狼狩りに認められた権利だ。かつては仕留めた人狼の爪や牙をトロフィー代わりに飾る人狼狩りもいたという。ホアンが怪訝な顔をしたのはブルーは今まで死体の処理をすべて警察に任せていたからだ。
「アヒル亭にツケが溜まってんだ。これ持ってったらしばらくチャラにしてくれんだろ」
「懸賞から払えよ」
「そっちは家賃にするんだよ」
気まずそうに答えるブルー。ホアンはもう一つため息をつく。
「なあ、ブルー。警察に入らないか?」
「は? なんだよ。急に」
「こんど人狼狩りの課ができるんだよ」
「首輪付きの狩人なんて面白くもねえ」
「暮らしは楽になるぜ」
「……柄じゃねえよ」
しばらく頭の中でそろばんを弾く間があって、ブルーは首を横に振った。「なんでだよ。お前の追跡術ならいくらでも挙げれるだろ。バックアップあった方がいいんじゃねえの?」
「書類書いて、上に頭下げて、後輩育てながらか? そんな器用なことはできねえよ」
「ブルー」
「それに」
遮ろうとしたホアンをさらに遮ってブルーは言う。
「俺は人狼狩りだ」
じっと手に握った銃を見つめる。その奥に前の持ち主を見出そうとしているような目つきだった。あるいはその仇を。
「やつを仕留めるまでは」
「そうか」
ホアンはそれだけ言うと眉を少し上げて冷蔵庫に向き直った。
「せんぱい、もどりました」
青白い顔で口元を拭いながら若い警官が戻ってきた。
「おかえりセキ。全部吐けたか?」
「胃液まで吐きました」
若い警官、セキは少し不思議そうな表情でブルーを見てからキッチンに入る。冷蔵庫を開いて中を調べているホアンに小声で尋ねる。
「そういえば、あっちの方は?」
「人狼狩りだよ。白銀皮殺しって知らねえか・」
「え!? 白銀皮殺しって、ブルーさん?」
ブルーの答えにセキが素っ頓狂な声を上げた。ちらりと横目でブルーの方を見る。ギラリとした鋭い目に見返されてホアンの方に向き直る。
「ああ、知らなかったのか」
「顔までは」
へぇーと言いながらなおもブルーの方を窺っている。ブルーは気づかないふりをして銃をいじっている。
「終わったぞ」
「あ、はい」
手帳を閉じてホアンが言った。セキは慌てて答える。
「じゃあ、ブルーそいつの頭はあとで届けさせるから」
「おう、悪いな」
「あ、そうだ。お前、来週の金曜暇か?」
思い出したようにホアンが尋ねた。ブルーは口をへの字に曲げた。
「先に用を言えよ」
「署長の演説があるんだよ」
「署長? ビエールイのおっさんのことだよな? 演説?」
ブルーが眉を上げた。ビエールイは警察の署長だ。
「ああ、今度の市長選でるんだとさ。その演説。なんか反対勢力の襲撃があるかもとかで、警備しろってよ」
ホアンは声を潜めて付け加えた。
「署長だしよ、断りづらいんだよ。ただ、正規の職員だけだとそこまでつけれねえから」
「どこの馬の骨とも知れん奴がいたらかえって危なくないか?」
「お前の身元は俺が保証するよ」
ブルーは腕を組んで考え込んだ。頭の中で事務所の金庫の中身と来月の家賃を思い浮かべているらしい。少しの間があった。
頷きかけて、その首が止まった。
「来週の金曜日だったか、何日だ?」
「13日だな。どうかしたか?」
「あー、悪い、その日はだめだな」
「なんかあるのか?」
「墓参りに行くことにしてるんだよ」
今度はホアンが黙り込んだ。少し沈黙して「ああ」と納得したように答える。セキが不思議そうな顔で二人を見つめる。
「まだ行ってるんだな」
「ああ」
「そうか」
「そういうわけだから、悪いな」
「いや、またなんかあったら頼むよ」
「ああ、じゃあな」
「またな」
それだけ言うとブルーは老婆の部屋から立ち去った。
「もう五年だぞ」
ドアの閉まる音を聞いて、ホアンはぽつりとそう言った。
「え、なんですか?」
「なんでもねえよ。それより早く慣れろよ。こういうの」
そう言いながらホアンが冷蔵庫の扉を開けた。セキは冷蔵庫の中に目をやってしまう。皮をはがれた年老いた女の顔が瞼のない目でうつろに見つめ返してきた。セキは息を呑んで、込み上げてくるものを抑え込もうと口に手を当てた。
「ひどいことしますよね。皮まではいで」
「そうしないと化けれないからな」
「知ってはいましたけど。慣れたくはないですね」
セキは床の獣の骸に視線をやって眉をしかめる。
「さっさと狩りつくさないと」
ホアンは面白そうな目で、セキの横顔を眺めた。その目は吐いた時の涙で赤く染まっていたけれども、たしかな決意が潜んでいるように見える。
「じゃあ、とりあえずそいつを処理しねえとな。詰所まで運ぶぞ」
「はい」
そこまで言ってホアンは意地悪そうにニヤリと笑って付け加えた。
「首はブルーが欲しがってたからな、傷つけると怖いぞ」
「ブルーさんって怖いんですか?」
「人狼狩りだぞ」
「そうですね」
セキはブルーの眼差しを思い出したのか、ぶるりと身を震わせた。慎重に人狼の身体を背負いあげる。痩せたセキには少し重すぎるようで、歯を食いしばり苦悶の表情を浮かべている。
「行けるか」
「はい」
セキはそう答えると、軽い口調を作った。よろよろと玄関の方へ向かう。
「でも、先輩、ブルーさんと知り合いだったんですね」
「まあ、ちょっとな」
「どこで知り合ったんですか」
「ああ、同じ師匠に仕込まれたんだよ」
「師匠?」
「ああ、知らないか? 九十九匹殺しのマロンって」
◆◆◆
”13代目 人狼狩り マロン 九十九匹の人狼の牙とともに眠る”
墓地の片隅の小さな墓石にはそう書かれてある。ブルーは墓石の前に立ち、コートのポケットから小さな酒瓶を取り出した。封を切り、自分で一口あおってから、残りを墓石にかけた。
「この前、ホアンに会ったよ。忙しくしてるみたいだぜ」
ブルーは墓石に話しかける。答える声はない。
もしも、マロンが生きていたらどう言うだろうか。想像する。五年間の習慣。耳の中に声がよみがえる。
『お前は忙しくなさそうだね』
「誰かさんのせいでな」
『残しといてやったろう? 面倒な奴をさ』
頭の中に痩せた女狩人の顔が浮かぶ。
「本当に面倒な奴さ」
『お前にゃ、難しすぎる相手だったかね?」
「あんたも仕留めれなかっただろうが」
『そう言われると辛いね』
そう言いながらもマロンはにやにや笑いを崩さないだろう。彼女は獲物を追う鋭い目をしているとき以外はいつも見透かしたような笑顔を浮かべていた。
『狩人さん、別に追い続けなくてもいいんだよ』
「そういうわけにもいかないだろ。今日だって一人殺された」
『それはお気の毒に、でも、そのうち全部勝手にくたばるぜ』
「その前に仕留めるさ」
そう言えばマロンはため息をつくだろう。
『あたしの仇ってんなら取らなくていいからね』
「…………」
頭の中のマロンに言われ、ブルーは黙った。頭を振ってかたく墓石に語り掛ける。それともそれは自分自身に向けたものだったかもしれない。
「そんなつもりはない」
ブルーはそう言って墓石に背を向けて歩き出した。
歩きながらふと考える。今のマロンの言葉はどこから出てきたのだろう
◆◆◆
「仇討ちが来る」
マロンはどさり、と事務所の床に二つの首を置いてそう漏らした。一つは人間の男、もう一つは雌の狼の頭部だった。声に滲む疲労は三日三晩の追跡のせいだけではなさそうだった。まだ銃身に熱の残る銃をブルーに差し出す。
「二匹いるように見えますけど」
ブルーは銃を受け取りながら疑問を口にした。つがいの人狼を追っていると聞いていた。二つの頭部は寄り添うように目を閉じている。マロンは血にまみれたコートを着たままソファに身を預けた。
「子供がいた。そいつを逃がした」
マロンは目を揉みながらため息をつく。
「らしくないですね」
部屋の片隅の作業台で拳銃からシリンダーを取り外しながら言った。引き出しから細いブラシを取り出して、バレルの中に数回突っ込む。筒の中にこびりついた汚れが黒い粉になって作業台の上に散らばる。弟子になって数年が経ち、銃の整備を任されるようになったのは最近のことだった。
「こいつらが全力で抵抗した。ガキを逃がそうとしてた」
「獣でしょう? そんな頭ありますかね?」
「半分は人間だ……子供もな」
苦々しい口調。ブルーはオイルを浸したぼろきれでさらにバレルの中をぬぐう。白い布がたちまち黒く染まる。
「逃げ際に顔を見られた。あいつは大きくなったら殺しに来るだろう」
「はあ」
ロッドを絞めなおす。マロンがため息をつく。
「返り討ちにすればいいじゃないですか」
「そのつもりだよ」
ブルーはシリンダーに空いた穴の一つに布を巻き付けた棒を通しながらちらりとマロンの方を見た。天井を仰ぎ、ひじ掛けに足を乗せた姿勢のままピクリとも動かない。隣の穴に布を通す。
「まあ、仕方ねえよな」
ぽつり、とマロンが言った。悔悟のこもった声。
「何がですか?」
「しっかり家族してやがったんだよ。こいつら」
「人狼のくせに?」
「ああ、旦那は人間に紛れて仕事に行って、妻は家の仕事しながらガキの世話見て」
「はあ」
マロンはぼんやりと語り続ける。
「ずっと見てたら本当はただの普通の家族なんじゃないかって思えてきた。そうだったらいいとも思った」
大きなため息を一つ。
「でも、駄目だったな。旦那の方がそこらの女の子をどっかでぶち殺して持って帰ってきやがった。どうもガキの誕生日だったらしい」
そこまで言うとマロンは思い出すように黙り込んだ。天井をぼんやりと眺める。他にあり得た選択肢を探しているようだった。
「仕方ねえよな」
マロンは繰り返した。首だけを動かして床の上の人狼の首を眺めて言う。
「こいつらを殺さなきゃ、誰かが殺される。殺された奴の親かダチか、ガキはこいつらを恨む。でもそいつらじゃこいつらを殺せない。じゃああたしが殺すしかねえよな」
聞いたことのないマロンの声の様子にブルーは手を止めて師匠の顔を見つめた。いつもと同じにやにや笑いを浮かべている。けれども人狼の首の向こうに何かを見るその顔にはどこか暗い影が落ちているように見える。
「あたしの師匠はあいつらに殺された。あいつらは私が殺す。いつかあいつらのうちの一匹があたしを殺すんだろうよ」
「そしたらおれがそいつを殺しますよ」
「頼もしいね」
ブルーの言葉に、マロンは小さく笑った。少し黙って首を振る。
「でも、仇はとらなくていい」
「そういうわけにもいかないですよ」
「仇だと思うな、ただの一匹だ。例えそいつが誰を殺していても、何人殺していても」
「はあ」
あの時の言葉は珍しく師匠らしいことばだったとブルーは思い出しながら思った。あれはマロンがホアンを拾ってくる少し前だっただろうか。
結局、五年前にマロンを殺したのがその孤狼だったのかどうかはわからない。もしかしたら全く別の狼がマロンを食い殺したのかもしれない。けれどもブルーは師匠の仇はその時の狼だと思っている。後にも先にもその牙の痕を見ることはなかった。
ふと、ブルーは足を止めた。墓地からの帰り道、いつもなら人通りのないはずの小道にやけに人が多いことに気が付いた。貧しい服装をした老若男女が希望に満ちた顔でどこかに歩いている。この先はなんだっただろうか、ブルーは考える。
「ああ」
思い至って舌打ちをする。その道は中央広場につながる道だった。もうすぐビエールイの演説が開かれる時間のはずだ。ブルーは頭の中に地図を浮かべる。
『いざというときに迷わないようにしときな』
町の地図を頭に入れさせたのはマロンだった。中央広場を迂回して事務所に向かう道を探す。最近では人込みを避けるときぐらいしか使っていないが。さらに細い路地につながる角を曲がる。
しばらく歩いたところで、ブルーの耳に何かが聞こえた。
遠い。しかし確かに狩人の耳は捉えていた。
女の悲鳴だ。続いて、鼻が匂いを捕まえる。血と獣の匂い。
気が付いた時には走り出していた。首筋がカッと熱くなる。声への最短の道のりを駆ける。走りながら懐から銃を取り出す。磨き込まれた黒檀の銃把を握りしめる。いつもの期待が胸に込み上げる。
血の匂いが強くなる。角を曲がる。
狭い路地だ。獣が見えた。
何かに覆いかぶさっている。黒い毛におおわれた巨躯。ひどく背を曲げた二足歩行。大きな腕が振り上げられる。その先端にギラリと光る鋭い爪。
立ち止まる。ハンマーを起こす。狙いをつける。引き金を引く。滑らかな手触り。腕に衝撃が走る。轟音が響く。獣の頭を掠める。
人狼が振り返る。闇の中に白い牙が閃いた。
その牙にブルーの脳髄に稲妻が走った。
五年間の光景が脳裏に閃く。あの日ぎらりと輝いた白い牙。師匠のマロンの微笑んだままの生首。破れた窓から駆け去る後ろ足で立つの獣の姿。脳裏によみがえる記憶に噛みしめる歯がギリと音を立てた。
込み上げる怒りを呑み込み、冷静さを意識に流し込む。
ハンマーを起こす。シリンダーが回る。狙いを定める。胴に銃口を向ける。視界の端に犠牲者がもがくのが見える。再び舌打ち。わずかに銃口を動かす。引き金を引く。衝撃。轟音。
「GRUAAAAAAAA!!」
人狼の咆哮が響く。右前足の付け根から血が噴き出す。人狼が飛びのいてブルーから距離をとる。ブルーは再びハンマーを起こす。人狼が振り向きブルーの姿を捉える。血にまみれた口元が痛みにゆがむ。
構えた銃を見ると驚いたように目を見開く。ブルーの目と人狼の血走った目が合う。人狼が動く。引き金を引く。外れる。予想に反して人狼は後ろに跳んでいた。振り向くと四つ足に戻り駆け出す。
ブルーが後を追い、走り出す。走り出そうとした。
「うぅ」
うめき声が聞こえた。駆けだした足が止まる。犠牲者の声だ。まだ生きている。若い女だった。腕を大きく引き裂かれ、ひどく出血している。ちらりと人狼の方に目をやる。今ならまだ追いつけるだろう。逡巡。舌打ち。
「くそ!」
◆◆◆
『甘いねぇ。お前も』
「うるせえよ」
混沌の領域が支配を完了しつつある事務所の片隅、かろうじて空白が保たれている作業机でブルーはマロンの幻影に悪態を返した。
『そんな子ほっといて、追いかければよかったのに』
ブルーはちらりとソファで眠る女を見た。ソファに置かれていた山積みの書類はいったん床の上に置き場所を変えて、女の横たわる空間を開けていた。この事務所に運び込まれ、包帯を巻いている間も、女は意識を取り戻さない。今も毛布にくるまり苦しそうに息をしている。
「あんたならほっといたって言うのかよ」
『どう思う?』
「絶対に拾ってたと思うね。あんたお人よしだし」
マロンはそういう人間だった。そうでなければ自分やホアンを拾ったりはしなかっただろう。
『よくわかっているじゃないか。いい弟子に育ってうれしいよ』
ブルーはため息を一つついた。作業台の上に置いた拳銃のねじを締めなおし、油を差す。黒くに輝く銃身は傷一つなく磨き上げられている。
視線を感じた。ブルーは目を上げる。ソファに横になったまま女がブルーを怪訝そうな目で見つめていた。はた目から見るとブルーは虚空と話しているようにしか見えないだろう。ブルーはごまかすように一つ咳ばらいをして尋ねた。
「名前は?」
「…………」
女は答えない。ため息を一つ。
ハンマーを起こし、引き金を引く。滑らかな手ごたえ。カチリ、と重い音がしてハンマーが空の弾倉を叩く。ぼろきれを手に取って漏れたオイルをぬぐう。
「何か覚えているか? お前さん、獣に襲われていたんだが」
ブルーは言葉に期待がにじまないように気を付けて尋ねた。人狼に襲われて生き残った者は少ない。ブルーは横目で女の様子をうかがう。女は黙ったまま何も言わない。
「落ち着いたなら送っていくぞ。どこに住んでいるんだ」
ブルーはあきらめて声をかける。女は首を横に振った。
「なんだ?」
女はまた首を振る。
「訳ありか? 家出か、追い出されたか……」
何も言わない。
「警察に行くか?」
女は首を振る。ブルーは眉をしかめる。立ち上がり、電話に向かう。ソファの脇を通った時、コートの裾を女がつかんだ。
「なんだよ」
女は困ったように黙り込んでいる。
その時、事務所の扉をノックする音が聞こえた。
「誰だ?」
「俺だ。ブルー、開けろ」
返ってきた声はホアンのものだった。
「ああ、ちょっとまってくれ」
「なんだ、開いてるんじゃねえか」
無遠慮に扉が開く。ホアンが姿を現す。その後ろに痩せた制服を着た男。
ホアンがブルーを見つける。裾を掴むソファに横たわる女に目線が走る。ホアンの眉と口角が吊り上がる。
「取り込み中だったか?」
「違う。そういうのじゃない」
ホアンの冷やかすような言葉にブルーは否定の言葉を返す。
「ちょうどよかった」
「なんだ? ちょうどいいって」
「ああ、この娘なんだが……」
ブルーはそこまで言って言葉を途切れさせる。眉を寄せて続ける言葉を探す。その一瞬に声が差し込まれた。少しかすれた声。初めて聞く声。
「ええ、初めまして。私ブランって言います。ブルーさんに助手にさせてもらったんです」
【つづく】
この作品は絶叫杯に提出するための作品である。連載形式でねえと長いのが書ける気がしないので連載形式にして書くことにした。たぶん4話くらいで完結する予定なんじゃないだろうか。
五月中に書き終わってそこから一つにまとめて修正したものを提出するつもりだ。あらすじを書いたときは「これは熱いな!」と思ったのだけれども、それをちゃんと形にできるといいなあ。するよ。するよ。
期待するのがよい。