ドブヶ丘名物行事案内:ポテトサラダのプール
「ポテトサラダのプール?」
天井の壊れかけたファンが耳障りな音を立てながらかき回す、うだるような熱気と湿気。それに例えようのない不快なドブの臭気の混ざりあった店内の空気に奇妙な言葉の組み合わせが聞こえた気がして、「酒場 アンディフィート」の店主は思わず聞き返した。カウンターに座った言葉の主は舌っ足らずな口調でそう答える。
「そうゆ。暑い夏にはポテトサラダのプールが欠かせないゆ」
「それは外のエルフさんたちの習慣なのかい?」
店主は女の長く尖った耳を見ながら尋ねた。街の下水浄化活動のときによく見るエルフと同類だろうか? 小柄な背格好とその耳は下水の住人たちとよく似ているけれども、彼らとは違って肌は粘ついておらず、目にも狂気の淀んだ輝きは見られない。
「そんなとこよだゆ。うちらの種族以外じゃやってうとこよみないけど」
「はあ」
そりゃそうでしょうね、という言葉を店主は飲み込んだ。この小柄なエルフが店に顔を出すようになって随分になるけれども、見えないところで段々と、街の狂気に蝕まれて来たのだろうかと心配になる。数少ないまともな客だったというのに。
「でっかいプールをよく冷えたポテトサラダで満たすんだゆ」
変わらずゆっくりとした舌っ足らずの口調でエルフは語る。すっかりぬるくなって炭酸も抜けているだろうコーラをすするその顔に狂気の色は見られない。少なくとも今のところは
「想像して見ゆのだ。プールいっぱいのつめたいポテトサラダ」
「そいつは……」
不思議なことにエルフの言葉は店主の脳内に鮮明な映像を映し出した。大きなプールに溢れんばかりに盛り付けられたポテトサラダ。よく見るときゅうりやら人参やらが色鮮やかに盛り付けられている。それを気ままにすくっては口に運ぶ住人たち。店主も何気なく一口、手に持ったスプーンで口に運んてみる。
ごくり、と喉が鳴っていた。想像の中のポテトサラダは程よく塩味が効いている。その塩気はポテト本来の柔らかな甘みと麗しき調和を奏で、夏場のけだるさに満ちた体にしみわたっていった。ここに足らないものがあるとすれば……
「それは……ビールだな」
エルフの後ろから声が聞こえた。エルフの後ろから顔をのぞかせたのは一人の男だった。ボサボサの髪をした薄汚れた白衣の男だ。
「来井宮博士じゃないか。いらっしゃい」
「ビールを一杯」
「あいよ」
来井宮博士と呼ばれた男はエルフの隣に腰掛けながら注文をした。この店の常連の一人だ。異常生物研究所の研究員の一人だと店長は聞いていた。
「なんか美味しそうな話が聞こえたんでね」
「ポテトサラダのプールのことかゆ?」
「ああ、実に興味深い」
店主からビールの入ったジョッキを受け取って博士は感想を返す。
「常々夏のつまみについては考えを巡らせていたんだ。冷たいもの、体が冷えるもの、逆に暑いものや辛いものも良いだろう。良い候補はいくらでもある。しかし一番良いものとなると……」
博士はゴクリとビールを喉に流し込んで熱い調子で言葉を続けた。店主はこの博士が一体何の研究をしているのか不思議に思った。
「なかなか決められなくてね。そんなときに面白そうな話がきこえてくるじゃないか。ポテトサラダのプール!」
興奮した調子で博士はまくしたてる。マッド性が比較的高くないとはいえ、彼もまたマッドサイエンティストの一人なのだ。
「暑い日の中、よく冷ましたポテトサラダと冷たいビール。これほどステキな組み合わせがあるだろうか! いやない!」
そうだろう、と博士は鋭い眼光をエルフに送った。
「ビールは……」
「うん?」
気圧された様子でエルフが言葉を漏らした。
「ビールはポテトサラダに合うゆか?」
「もちろんだとも、ポテトサラダがあればあるだけ、同じ重量のビールが必要だと言っても過言ではない」
「そうやのか」
エルフはうつむいて小さくつぶやいた。カウンターに目を落とし、黙り込む。カウンターに立てかけた棒を握りしめている。その棒に目をやった店主はその棒が奇妙な形をしているのに気が付いた。穴の開いた円盤が先端に取り付けられた短い棒。円盤の端は引き裂いたように折れている。どこかで見たことのある形。奇妙なのはそんなものがここにあるということと……
「これは、マスター、あんたにとっても良い話だろう。用意すればしただけビールが売れるんだぞ」
博士に話を振られて店主は我に返った。博士は熱っぽく語り掛けてきている。
儲けの絡んだ話を聞こえて、ふむ、と店主は腕を組んだ。「用意すればしただけ」などという甘い言葉の全部が本当だとは思えないけれども、これからの暑い時期に向けて、ビールの有用性をアピールする機会は願ってもいないことだった。
とはいえ、と店長は頷きかけた首を止めた。
「ここでは難しいでしょうよ」
「そうか?」
「ええ、そんなに大量のポテトなんてここじゃ手に入らないでしょう。それにプールなんて上等な物この街にあるわけがない」
「質さえ問わなきゃ、この街で手に入らないものなんてないさ」
『質さえ問わなきゃ、大抵のものが手に入る』。それはこの街の闇市のキャッチコピーだ。実際栓抜きから核燃料まで、闇市に行けば驚くべき品々が驚くべき陳列順で並んでいたりする。とはいえ、と店主は口を開く。
「すくなくとも食べる物をこの街の質で選びたくはないですね」
「でも」
それまで黙りこくっていたエルフが突然に口を挟んだ。
「どんなのでも、ポテトであいぇばポテトサラダができゆ」
「あのね、エルフさん。どんなものでもって、この街の食べ物の悪い方を舐めちゃいけませんよ。腹を下すなんてまだいい方だ。悪けりゃ調理をしようとした瞬間にそこら一帯がグランドゼロになっちまうことだってざらなんですから」
「大丈夫ゆ」
店主の説得の言葉をエルフは遮った。いつの間にかその手には巨大な槌が握られていた。
「私はポテサラエルフゆ」
ゆっくりとした口調。けれどもいかなる反対する意思をも砕くような重い口調だった。その時店主は気がついた。エルフが握っているものの正体。この場にあるはずでないもの。そのサイズであるはずがないもの。
それは柄の折れた巨大なポテトマッシャーだった。
◆◆◆
「ひっ」
暗闇の中懐中電灯の光の円の端に何か動いた気がして店主は悲鳴を上げた。
「どうかしたかね」
博士のヘッドライトに照らされて店主は眩しそうに顔をそらした。気まずそうに店主は尋ねた。
「本当にここが『いい考え』なんですか?」
「うむ、ここは昔私が勤めていた研究所でな。植物の成長に関する研究をしていたんだ。ちょっとした事故で閉鎖されたんだが」
「ちょっとした事故?」
不穏な単語に思わず聞き返してしまう。
「活きのいい植物を作るつもりが活きた植物を作ってしまってね。研究員の7割が食べられてしまったんだ」
懐かしそうな口調で博士は答える。店主は眉をひそめた。そういえば、随分前にどこかの研究所が壊滅したという噂を聞いたことがある。この研究所のことだったのだろうか? 店長の不安な表情を見えているのか見えていないのか、博士は能天気に続ける。
「大丈夫だ。それだけ元気だってことさ」
何が大丈夫なものかと漏らしかけたぼやきを店主は飲み込んだ。勢いで来てしまったものの、後悔の念が胸の内にだんだんと膨らんできていた。
「エルフさんは大丈夫ですか?」
不安を振り払おうと店主はポテサラエルフを振り返った。このもう一人の同行者はカウンターに座っているときと変わらない眠たげな表情をしたまま、何も言わずに博士と店主の後ろをついてきている。
「大丈夫だゆ。たしかに、新鮮なポテトの匂いがすゆ」
鼻をくんくんと動かしてエルフは言った。それを聞いて博士は「そうだろう」と満足げにつぶやく。博士が自信たっぷりに言えば言うほど、店主の中の言いしれぬ悪い予感は膨らんでいった。悪い考えを振り払うように、懐中電灯を前に向け、廊下を一歩踏み出す。
心細い明りの中に廃墟の床を覆う青々とした植物が照らし出される。日の光は差し込んでいなさそうだけれども、一体何を養分にして生きているのだろう。不吉な疑問が心をかすめる。
――がさり
何かが動く音を聞いた。店主は体をこわばらせ、耳をすませる。
――がさ がさ
聞き間違いではない。たしかに何かいる。
音の方向に懐中電灯を向ける。なにもいない。ただ天井を走る配管に植物の蔦が絡まっているだけだ。
「どうしたね?」
「いえ、何か――え!?」
「うっ」
――音が、と続けようとした店主の声は懐中電灯を叩き落とされたことで中断された。懐中電灯はあらぬ方向に転がり、あたりは闇に包まれる。博士のヘッドライトもどこかに飛ばされたようだ。
「博士、これは」
「むう、少しまずいかもしれん」
ここに来て博士の声に焦りが混じった。それを快く思うほどには店主も余裕はない。身構え、周囲の気配に注意を注ぐ。もはや気配は隠れていない。三人を取り囲むように何かがうごめいている。葉の擦れる音。 蔦の軋む音。
「植物!?」
「素晴らしい。ここまで進化していたとは」
博士が驚嘆の声を上げる。店長はそれを無視する。包囲の気配は徐々に近づいてくる。店長は収穫用兼護身用にと持ってきたナタを構える。振るうのをためらうつもりはない。同行者を傷つけたとしても、全員が食べられるよりはマシだ。気配が迫る。ナタを振り上げる。
――✕✕✕✕✕
暗闇に聞き慣れぬ詠唱が流れた。やわらかく、それでいて神秘的な発音。
続いて、あたり一面に轟音がひびいた。
ここであるいは読者諸兄には聞き慣れぬ種族かもしれないポテサラエルフについて紹介しておこう。ポテサラエルフはポテサラダ(じゃがいも(ポテト)を蒸して潰し、調味料を混ぜ合わせたサラダ)を主食とするエルフである。
他のエルフ同様にポテサラエルフもまた、食料を得るために独自の進化を遂げた。ポテサラエルフは彼らがポテトだろ認識したものならば全て蒸して潰してしまうことができる。
彼らの歴史の中で、硬いポテトや大きなポテトとの遭遇は稀なことではなかった。しかし、ポテサラエルフは渇望にも似た衝動を止めることなく、あらゆるポテトをポテトサラダにしてきた。
ポテサラエルフは他のある種のエルフ、例えばパームエルフ(椰子の実を主食とするエルフ)やバンブーエルフ(竹を主食とするエルフ)のように膂力に優れるわけではない。それほどの力を有無には咬力が足りないのだ。
あるいは、咬力が不足しているからこそポテトサラダを主食とするようになったのかもしれない。
ポテサラエルフがポテサラエルフであるとされる所以はその独自の魔法にある。一般にポテサラ魔法と呼ばれる魔法は対象の密度を蒸したように薄くする。すなわち、ポテサラエルフの魔法の本質とは物質の疎密を操作することなのだ。
皆様の中に暗闇の中を見通す眼力を持った方がいれば何が起きたのかは明白だっただろう。ポテサラエルフは2つの呪文を詠唱していた。
まず1つ目は床に手を当てて唱えられた。ポテサラエルフの言葉で「やあらかくすゆやつ」と呼ばれる呪文。触れたものの硬度を著しく下げる呪文だった。魔力は床を伝って壁に、天井に効果を及ぼした。配管、柱はたちどころに脆くなる。まとわりついていた占拠者の重みにすら耐えられないほどに。
そして、落ちてきた襲撃者のをつかんだエルフは今一度呪文を唱えた。先程とは異なる呪文だ。「ぎゅっとすゆやつ」。ポテサラエルフの言葉でそう言われる呪文だ。懸命な読者の中にはお気づきの方もおられるかもしれない。この呪文は「やあらかくすゆやつ」の逆の効果を持つ。大がかりなポテトをマッシュ――潰すために進化を遂げた呪文だ。
轟音とともにエルフの手を中心に襲撃者の体がまとめられる。
「な、なにが?」
「これは……人参だゆ」
エルフが手の上の塊を触りながら声耐えた。
「人参?」
店長は懐中電灯を見つけ出し、エルフに光を向ける。その手の上には蔦と葉の塊に紛れてオレンジ色の物体がわずかにうごめいていた。
「おお、これは試験体C24号だな。まだ生きていたとは興味深い」
同じくヘッドライトを見つけだした博士が感嘆の声を挙げた。
「なるほど、侵入した生物を捉えることで栄養を接種するように進化したのか」
「そんな剣呑な」
「生物の進化とは驚異に満ちている」
博士はしげしげと緑とオレンジの混ざりあった塊を眺め回す。
「人参は正式のポテトサラダにはかかせないゆ」
エルフはマイペースにそう言うと淡々と茎と根っこを分け始めた。懐中電灯の照らし出す小さな明かりの中で、オレンジ色の根は意外なほどにおいしそうに蠢いていた。
◆◆◆
「なんで、エルフさんはこの街でポテトサラダのプールをしようなんて思ったんです?」
「この時季にはポテトサラダのプールだゆ」
数度の進化植物たちの襲撃を乗り越えたあたりで、ポテトサラダエルフも打ち解けてきたのか店長の質問に言葉少ないながらも答えるようになっていた。その背中には「活きの良い」玉ねぎやキュウリなどのかつて襲撃者だった収穫物が背負われている。
「でも、エルフさんなら他の街でもできたでしょう? こんな危ないことなんかしなくても」
「探してるやつがいるんだゆ」
「探してるやつ?」
ちらりとエルフの方を見て店長は聞き返した。エルフはぼんやりと前方の暗闇を見つめたままついてきている。少しだけ、口がへの字に曲がっているように見えた。
「一緒にこの街に来たんだけど、いつの間にかいなくなっていたんだゆ」
「はあ」
「こいつの代わりを探すって言っていなくなったからこいつも折れたままゆ」
言いながらエルフは手に持った杖――ポテトマッシャーを持ち上げた。確かにその先端の円盤の大きさから考えると、いびつな比率をしているように見えた。本来ならエルフの背丈と同じくらいの長さがあってもよさそうだった。
自分の問いにエルフの答えがかみ合っていないように思えて、首を傾げながらも話を合わせる。
「まあ、この街では結構人がいなくなりますからね」
「そう、あいつ時々方向音痴だから迷子になったんだと思うゆ」
「なるほど」
エルフの言葉は頷けるものだった。絶えず崩壊と再構築、変形を繰り返すこの街では多少方向感覚が優れているものでも目指す場所にたどり着けるかどうかは賭けの分野に足を踏み入れている。それも随分と分の悪い賭けだ。
「あー、それでポテトサラダのプールを?」
「そう」
「その連れの方もポテトサラダが好きなんですか?」
「あいつはポテトサラダもまあすきだけいぇども……」
エルフは少し馬鹿にしたように鼻を鳴らして続けた。
「ポテトサラダと一緒に飲むビールが好きって言ってたんだゆ。だからポテトサラダのプールでビール用意したらたぶん匂いにつられてやってくるんだゆ」
「なるほど……それじゃあ、なんとしても開催しないわけにはいかないですね」
エルフの連れの結末について、あまり快くない――そしてたどり着いた可能性の高そうな結果が浮かんだことをできるだけ表に出さないよう言葉を選びながら店長は努めて明るく言った。この街で行方不明になる者は多いけれども、無事に帰ってくるものはひどく少ない。
「あとは肝心のポテトが手に入れば」
わざと博士に聞こえるように店長が言う。先頭を歩く博士は立ち止まって振り向き、口を開いた。
「安心したまえ、試験体P50号、ああジャガイモをベースにした植物だが、あいつはこの研究所でもかなり強いやつだった。この環境ならば十分に大きくなっているはずだ」
◆◆◆
「大きくなってるって、あれですか?」
眼下に広がる信じがたい光景を脳に入れるのを拒否したいという願望から博士の横顔を見つめながら、博士は尋ねた。
「ああ、随分と大きくなっているな」
ガラス張りの窓から覗けるのは一つ下の階の様子だ。まだ電源が活きているのか天井の明かりが煌々と輝いている。体育館ほどもある広い空間が見える。その空間を植物が埋め尽くしていた。鮮やかな緑の葉の隙間に、土から盛り上がるようにして薄茶色の塊が見える。
「あれはポテトだゆ」
「そりゃそうでしょうけど」
その見た目はたしかにジャガイモだけれども、店長の理性は眼下の植物をジャガイモだと認めることを拒否していた。
「大きすぎでしょう」
改めて、店長は言葉を繰り返す。何度繰り返しても足りないように思えた。
そのジャガイモはあまりにも巨大すぎた。見えているのは根のほんのわずかな部分だけだ。しかし、そのわずかな部分でさえ優に人の背丈を超えている。埋まっている部分はいったいどれだけの大きさになっているというのだろう。
「たしか、あの部屋は地下四階分はあったはずなんだが……光を求めてここまで来たのか、成長のあまり天井を突き破ったのか……いずれにしてもなんとも興味深い」
博士の言葉を聞かなかったことにしたくなる。
「帰りましょう」
即座に店長は提案する。
「何を言っている。ようやくここまでたどり着いたんだぞ。あれだけあれば量は十分なはずだ」
「どうやって持って帰るんですか。だいたい、どうせあのジャガイモも『活きが良い』のでしょう?」
「ああ、もちろんだ」
店長は自信たっぷりに答える博士の横っ面をはり倒したい衝動にかられる。
ガゴン!
店長が振り上げた手は、恐ろしい音と衝撃にピタリと止まった。音の方に目をやる。巨大ジャガイモを見下ろすガラス窓。いや、見下ろしていたはずだ。今やガラス窓から見下ろしているのはジャガイモの方だった。根につながったままのジャガイモがガラス越しに三人を見下ろしていた。
それは三人を見下ろす顔のようにも――
――三人を叩き潰す巨人の拳のようにも見えた。
ガゴン!
轟音が再び鳴り響く。店長は思わず閉じた目を開く。振り下ろされたジャガイモがどこか悔しそうに天井近くまで戻っていくのが見えた。
「安心したまえ、こんなこともあろうかと観察窓は強化ガラスでできている」
博士の落ち着いた声が腹立たしくも頼もしく聞こえてしまう。
「そんな危険な実験……」
ガゴン!
三度、轟音が鳴り響く。窓を見た店長の背筋に戦慄が走る。分厚いガラスに亀裂が入っているのが見えた。またしてもジャガイモが振り上げられ……
ガゴン!
今度の轟音はさらに大きく聞こえた。三人とジャガイモを遮てていたガラスと壁がなくなったからだ。
「危ない!」
店長は博士とエルフを抱きかかえ、転がるようにして廊下に駆けだしていた。背後にガラスと壁の残骸が降り注ぐ。大きく開いた穴から葉が、蔦が、根が押し寄せてくる。
店長は立ち上がると二人を引き摺るようにして廊下を駆け出した。びたんびたんとおぞましい音を立ててジャガイモが追いかけてくる。
「なんとかして!」
「×××××」
エルフが呪文を唱える。背後の床が脆くなり、轟音を立ててジャガイモが階下に落下する。しばしの静寂。
「!」
安堵の暇もなく再び駆け出す。勢いよく床の穴からジャガイモが飛び出し、三人のいた場所を殴打する。
「しかし、奇妙だな」
店長に引きずられながら博士が首を傾げた。
「何が」
苦しい息の合間に店長が尋ねる。
「本来ジャガイモは肉食性ではない。ここまで執拗に我々を追うとは思えないが……」
「そう進化したんでしょう?」
「その可能性はあるが、植物は植物だ。なわばりを離れてまで追うというのは奇妙だ」
店長は考え込む博士を無視することにした。現状を打破するとは思えない。エルフは断続的に呪文を唱え、壁や床を脆化し追撃を緩めようとしているが、焼け石に水、わずかな時間稼ぎにしかならない。
店長の体力の限界が近づいてくる。時折、ジャガイモの殴打が背中をかすめるようになる。
「エルフさん。呪文でなんとかならないんですか?」
「ここまで大きいと触媒がないとできないゆ」
「そのポテトマッシャーは違うんですか?」
半ば叫ぶように問いかける。エルフは顔をしかめて答える。
「やってみゆ」
エルフは特大ポテトマッシャーを構えると呪文を唱え始めた。ポテトマッシャーが暖かな光に包まれる。
「×××××」
詠唱とともにポテトマッシャーを包んでいた光がジャガイモへと飛んでいく。「やあらかくすゆやつ」。本来の使い方。ほくほくに蒸されたジャガイモのように万物を柔らかくする呪文。しかし……
「だめゆ」
光はあっさりと弾かれてジャガイモは追撃を再開する。さほどの効果があったようには見えない。
「やっぱり、折れた杖じゃあの大きさは無理ゆ」
エルフは手の中のポテトマッシャーを見つめる。本その柄は中ほどでぽっきりと折れている。調和の取れていない杖で呪文に十全な効果を発揮させることは難しい。
「くそ」
店長は吐き捨てると全力で加速する。限界は近い。けれども自分と――常連客の命のためならばもう少しだけ走ることができる。エルフは呪文を唱え続ける。ジャガイモの猛追は止まない。
「む、あれは!」
突然、博士が叫んだ。ジャガイモの群れを指さしている。店長はちらりとその指の先を見る。あれは……。
「とまいぇ!」
突然の抵抗に店長はつんのめって転がる。エルフがポテトマッシャーを床に突き立ててブレーキにしたのだと気が付く。
「なにを」
「あいつゆ!」
詠唱。ひと際明るい光がジャガイモめがけて飛ぶ。ジャガイモはしばし追撃をやめて、光を振り払う。その軽い一撃で呪文の輝きは打ち払われてしまう。
エルフの目線の先、ジャガイモの蔦に絡みつかれるようにして一人の人影が見えた。背の低いひげ面の男性。眠っているように目をつむり、ジャガイモの中に半ば埋め込まれている。
「エルフさんがさがしているってのは」
「×××××」
店長の問いかけに答えずエルフは呪文を唱える。男性の周囲の蔦をめがけて、何度も何度も。しかし、機敏に動くジャガイモが呪文をはじいてしまう。
「なるほど……一度人族の味を知ってしまったということか。それで我々を狙っているのだな」
博士がつぶやく。
「あれを切り離せば何か起こりますか?」
「わからん。だが、個体としての植物に記憶装置はない。捕りこんだものを切り離せば人の味は忘れるかもしれん」
「エルフさん!」
博士の言葉を聞き、店長はなおも詠唱を続けるエルフの肩を掴んだ。
「あの人なんですね」
「……そうだゆ」
店長は少し目をつむり、息を吐き、吸う。じっと眠る男性を見つめる。
「あそこまで行きます。援護を」
「でも……」
「助け出してしこたまビールを買ってもらいます」
店長は笑ってジャガイモに向き直る。疲れ切った足に酸素を送り込む。襲い来るジャガイモの側面を蹴って駆け上がる。蔦が、葉が襲い掛かる。身をかわし、蹴りつけ、切りつけ、上へと向かう。男性の方へと。
「!」
蔦を躱して中空に踊り出してしまう。無防備な店長を巨大なジャガイモが襲う。躱せない。店長の脳裏にひき肉になった自分の姿が浮かぶ。目はつむらない。迫りくる死を睨みつける。衝撃の予感。その直前にジャガイモの動きが引き攣った様に鈍くなる。宙返りの要領でジャガイモの上部を蹴りつける。視界の端にポテトマッシャーを構えるエルフが見えた。「ぎゅっとすゆやつ」。お礼は言わない。それは今ではない。
眠る男性の傍らに着地する。迫りくる葉を躱して男性の周囲をナタで切りつける。掘り出すように。微かに男性の目が開く。
「あんたは……?」
「すぐ助ける」
「いいや……私は、もう」
男は力なく首を振る。
「冷たいビールが好きなんだろう。エルフさんが言っていたよ」
「エルフ?」
「ああ、あのしたっ足らずのずんぐりむくりの。あのエルフさんに頼まれたんだよ」
店長が叫ぶ。男性の目が優しく開く
「ああ、あの子が来ているのか」
「そう、だから行こう」
男性は微笑んで、けれども首を振った。その口が言葉を作る。
――にげろ
言葉の意味を認識する前にあたりから生えたジャガイモが男性もろとも店長を包み込んだ。
「店長!」
その様子を見ていたポテサラエルフが叫んだ。
「危険だ。もう逃げよう」
博士が呼びかける。
「でも」
「これ以上は我々ではどうしようもない」
「……でも」
博士の言葉の意味は分かる。それが合理的だということも。けれども……
「××××」
エルフは呪文を唱える。呪文はたやすく弾かれる。再び詠唱。
「危ない」
博士が覆いかぶさるようにポテサラエルフを抱え込んだ。その背中に瓦礫が降り注ぐ。呪文をはじいたジャガイモがそのまま二人の間近の天井を破壊したのだ。それほどまでに魔法の威力が弱まっているのか。
「一度撤退だ。解決法を編み出して助け出そう」
唇を噛んで、エルフは頷く。最後の足止めに大きく床を崩そうと床に手をつく。
「これは?」
瓦礫片に混ざって、一本の棒が転がっているのに気が付いた。エルフの背丈ほどの棒。その先には穴の開いた金属の円盤が取り付けられている。思わず拾い上げる。驚くほど手になじむ。
「エルフくん?」
「あいつめ……」
小さくつぶやくと、エルフは棒――ポテトマッシャーを構えた。
「×××××」
詠唱を始める。落ち着いて全身、そして周囲の魔力を感じながら。土、ジャガイモ、光、空気。杖を介してすべての魔力が調和していく。
ふわり、と緩慢にさえ見える動きで杖から光が放たれる。光は襲い掛かるジャガイモへとゆっくりとしかし確実に飛んでいく。
光に包まれたジャガイモは戸惑うように動きを止めた。先ほどまでの小さな光とは違う。もっと根源的な幸福。本来の自分たちの喜びを呼び覚ます光。自分たちが優しくほぐれていくのを感じる。「やあらかくすゆやつ」。
そしてポテトマッシャーが振り下ろされ、もう一度光がジャガイモを包む。やわらかくなった自分たちが、あまりに大きくなりすぎた自分たちが一つになっていく感覚。「ぎゅっとすゆやつ」。
ああ、そうだ。私は、私たちは本当は食べたかったのではなくて……
◆◆◆
「はいはい、ビールはいくらでもあるからね。じゃんじゃん飲んでね」
店長がビールの樽を担いでプールサイドを駆けまわっている。
「ねえ、博士」
頬張ったポテトサラダをよく冷えたコーラで流し込みながらエルフは尋ねた。
「どうしたね」
ビールとポテトサラダをちびりちびりと交互に舐めながら、博士はエルフに目を向けた。
「店長、あのジャガイモにとぃこまいぇなかったっけ?」
「マスターはなかなか難儀な体をしているらしくてな」
「難儀」
「いわゆる不死というやつらしい。呪いだか、祝福だかわからんが、いやあ興味深い」
「なにそいぇ」
エルフは眉を寄せてポテトサラダを一口頬張った。たちまち眉間に寄った皺が消える。良い出来だ。些細な疑問なんてどうでもよくなるくらいに。
「やあやあ、飲んでます?」
上機嫌な様子で店長が二人のテーブルにやってきた。傍らに樽を置くと手近にあった椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「大盛況のようだな」
「おかげさまでね。いやあ、やっぱり空調設備があると客の入りが違ういますな」
ほくほくの笑顔で店長が答える。かつての植物研究所をポテトサラダのプール会場にするのは博士の提案だった。壊れた壁を直し(ポテサラエルフの魔法を使えばさほど難しいことではない)電気の配線を整備すれば快適なプール会場の出来上がりだった。植物の管理のためにドブヶ丘には珍しい電気式の空調設備がそろっていたのは幸運だった。
大々的な宣伝の甲斐もあり、連日の真夏日と不快なドブの湿気から逃れようとドブヶ丘の住人たちは一息に会場に押し寄せた。彼らはむさぼるようにポテトサラダを食べ、浴びるようにビールを飲んだ。
今回は控えめな値段で提供したビールだけれども、一度知ってしまった味はそうそう忘れられるわけではない。この夏の「酒場 アンディフィート」の繁盛は約束されたようなものだった。
「あー、でも、あの人は……残念でしたね」
机に立てかけられた新しい特大ポテトマッシャーを見て、少し、声を落として店長は言った。
「まあ、仕方がないゆ」
エルフが首を振って答える。結局、エルフの同行者を助け出すことはできなかった。ジャガイモと完全に同化してしまっていたようだった。
「あいつが死んだらハムにしてやゆって約束、守いぇなかったのだけが残念だゆ」
「ハム?」
奇妙な言い回しに博士は首を傾げた。
「仲間が死んだやそいつをハムにしてポテトサラダにすゆの。そうしたやそいつは食べたものの中で生き続けゆの」
「なるほど」
店長は相槌を打ち、ポテトサラダをつまんだ。口の中に柔らかな甘みが広がる。人参、キュウリ、それに塩気の効いたハムがいいアクセントになっている。
――ハムなんて入れたかしら?
「おおい、マスター、こっちビールお替りー!」
浮かんだささやかな疑問は遠くから聞こえた酔客の声でかき消された。
「はいはい今行きますよ」
よく通る声で叫んで立ち上がる。
「ごめんなさい、ちょっと行きます。まあ、二人とも楽しんで行ってよ。これは置いとくから」
樽をポンと叩いて店長は駆けだした。
「ビールはのまないのだけいぇど」
「私がいただこう」
博士は樽にジョッキを突っ込み大胆にビールを汲むとごくごくと一息に飲み干した。それから大きくポテトサラダを頬張り、飲み込む。満足そうなため息。
「ビールっておいしいゆ?」
興味なさそうな調子でエルフが尋ねた。
「ポテトサラダに最も合う飲み物の一つだ」
「ポテトサラダに合うなや試さないわけにはいかないゆ」
そう言うとエルフはジョッキを樽に突っ込み、少しだけためらってから一口、口をつける。
「こいぇは……」
「どうかな?」
「もう少し、試してみゆ」
ポテトサラダを一口飲み込み、ビールを一口飲む。ポテトサラダを食べ、ビールをもう一口。ポテトサラダ、ビール、ポテトサラダ、ビール。間隔は段々と短くなっていき、いつの間にかジョッキは空になっていた。
「どうかな」
博士は興味深そうな顔をしてもう一度尋ねた。
「もうしゅこし、たみぇしてみゆ」
いつも以上に舌足らずな口調でエルフが答え、ジョッキを樽に入れる。
「最初はあまり多く試しすぎない方がいい」
「おおすぎやしない」
言い返すけれども、その足元はふらついている。
樽のふちに手をつく。
「ん?」
博士はエルフの手が少しだけ輝くのを見た。
ばしゃり
瞬く間に樽のタガが緩み、中のビールがあふれ出す。
「このたゆこわいぇてゆ」
「なるほど、興味深い。魔法使いは酔っぱらうと詠唱なしに呪文を行使できるというわけか……いや、これは漏れ出したというべきか?」
ビールが零れたことを気にしないのはエルフの魔法に興味を示しているからなのか、あるいは博士も随分と酔いが回っているからなのか。それを判断できるほど酩酊していない者はこの場に誰もいなかった。
零れたビールが床を伝い、会場の端の植物の欠片に注がれたのに気がついた者もいなかった。その植物の欠片が「ああ、うまいビールだ」と小さくつぶやいたことに気がついた者も。あるいはいたのかもしれないけれども、酔いが聞かせた幻聴だと思い、もう一杯のビールを呷ったのかもしれない。
◆◆◆
それからしばらくして、ドブヶ丘の片隅の酒場に緑色の小柄な男性が現れるようになった。男性にはジャガイモが生えていた。
たまたまその場に居合わせた研究者は彼の種族を「ホビットポテト」だと結論付けた。彼自身は「ポテトホビット」だと主張し、毎晩ビールを飲みながら議論をしている。
時折、近くに座った小柄なエルフの視線を感じると、議論の合間に漏らしている。
【終わり】
ここから先は
¥ 200
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?