トレイターズ・トレード
滑らかに動き続けていた亀井さんのペンがピタリと止まったのに気が付いて、工藤真司も写真を編集する手を止めた。
「どうしました? 亀井さん」
「あ、ううん、別に」
曖昧に答えながら亀井さんが微笑みを浮かべる。学校帰りと言っていただろうか、制服姿の亀井さんの姿に真司は軽く頬が熱くなるのを感じて、慌てて写真に目を戻した。
東さんもくるみちゃんも今日は遅れてくるということで、今、黄龍上の管理等の会議室にいるのは真司と亀井さんの二人だけだった。友人の友人の女子と二人きりという状況は女子への免疫の低い高専生にとってはかなり落ち着かない状況だ。
亀井さんは真司の落ち着かなさを気づかぬ様子で、軽く伸びをした。
「ちょっと、疲れちゃって」
「お疲れさまです。でも、もう結構進んでますね」
真司は亀井さんの手元を覗き込んだ。A3の紙の上には翁琉城の簡易なイラストが描かれていて、その周囲をいくつかの白い四角の枠組みが取り囲んでいる。ほとんどの四角はすでに亀井さんの丁寧な字で埋められていた。
「ええ、伊丹さんからいただいた資料をまとめただけですから」
「でも、まとめられるのもすごいと思いますよ。僕なんか情報を整理するのは苦手で」
「ああ、そうなんですね」
翁琉城の案内のリーフレットを作り直してくれないかと頼んできたのは、黄龍上ボランティアスタッフの伊丹さんだった。これまで配っていたリーフレットは、大変「歴史を感じる」ものなので、若い感性で作り直してみてほしいとのことだった。
「歴史のお勉強は苦手ですの」という華鳥さんがくるみちゃんに手伝ってもらいながら大まかなデザインを作ったので、亀井さんが文章を書くことを買って出た。実際、今簡単に目を通しただけでもかなり読みやすくてわかりやすい文章だと、真司は思った。
「良い文章ですね」
「そうですか? ありがとうございます」
「ええ」
何か言葉を続けようと思考を高速で回転させるけれども、なにも思いつかず真司はパソコンに目を戻した。亀井さんも何かを言おうとしたようだけれども、結局何も言わずに原稿に目線を落とす。沈黙が流れた。真司は画面の中で意味もなくカーソルを行ったり来たりさせた。
あまり親しくない女子と、こんな時に何を話せばいいのかわからない。
それに、と真司はパソコンに顔を向けたまま、正面に座る亀井さんの様子を窺う。この女の子は見た目通りではない部分を隠しているように思えた。
「あの」
「あの」
思い切って発した真司の言葉は同時に発せられた亀井さんの声とぶつかった。真司は慌てて首を振る。
「あ、あの、お先にどうぞ」
「え、あ、ごめんなさい。その、そんなに大したことじゃないんですけど」
「はい」
「あの、工藤さんって、くるみさんの友達……なんですよね」
ゆっくりと言葉を選びながら、亀井さんが問いかけてくる。顔は原稿に向けたままだけれども、横目でこちらの反応を窺っているのが見えた。
「ええ、学校が一緒なので、それで」
「ああ、そうなんですね」
納得したように亀井さんは頷くのを見て、真司は言葉を続けた。
「で、東さんとたまたま知り合って、くるみちゃんと友達になりたがってたから紹介したって感じですね。華鳥さんも東さんの友達で」
「あ、なるほど。そういうことなんだ。みんながどこで知り合ったのか、あんまり詳しく聞いたことなかったなって」
「そうですよね」
考えてみれば、亀井さんにとって自分の存在はずいぶんと謎の存在なのかもしれない。共通の友人である東さんにしろ、くるみちゃんにしろ、どちらもあまり男子と積極的に仲良くなるタイプではない。亀井さんは二人とどこで知り合ったのかを前から知りたがっていたのかもしれない。
「僕、写真を撮るのが好きなので、ここのボランティアを手伝わないかって東さんに頼まれたんですよ」
「いつもカメラ持ってますもんね」
「ええ」
うっかり東さんとの「同盟」について口を滑らさないように気をつけながら、真司は丁寧に説明を口にした。
「今回の写真も決まりました?」
「はい。この辺にしようかなと思ってます」
真司はパソコンの画面を亀井さんに向けた。画面には翁琉城の大きな写真が表示され、その下に同じく翁琉城の映った写真のアイコンが並んでいる。
「ちょっと見せてもらってもいいですか」
「もちろん」
亀井さんは立ち上がると、真司の隣に回り込みパソコンを覗き込んだ。制服の布越しに伝わる体温に真司の耳が熱くなる。さりげなく椅子ごと身体を動かして顔を逸らす。
「他のやつも見せてもらっていいですか?」
「もちろん」
顔を逸らしたまま答える。かちかちとキーボードを押す音が聞こえる。
「いい写真ばかりですね」
「ありがとうございます」
亀井さんの社交辞令と思しき言葉に、それでも真司は自分の口角が上がるのを抑えきれなかった。いつだって写真の腕を褒められるのはうれしいものだ。
「あら」
写真を送っていた亀井さんの手が止まった。不思議に思って画面を見る。
「あ」
真司の身体が固まった。
「あの、ごめんなさい。なんだか、私変なとこ押しちゃったみたいで」
同じように動揺した亀井さんの声がどこか遠くに聞こえてくる。
画面に表示されていたのはくるみちゃんの笑顔だった。画面下部には同じようにくるみちゃんの笑顔が並んでいる。どれもカメラ目線ではない。自然体のくるみちゃんだった。亀井さんが操作するうちに、どこか別のフォルダを開いてしまったらしい。秘匿されるべきフォルダが。
「これって」
亀井さんが低い声を発した。全身の血液が凍ってしまいそうな声だった。
「とうさ……」
「違うんです、これは、その」
亀井さんの言葉を遮って、真司は大きな声を出した。だが、続けるべき言葉が見つからない。
「工藤さんって、こういう写真も撮るんですね」
「違うんです」
冷たい視線が真司に突き刺さる。
真司の名誉のために述べておくならば、そのフォルダは真司の個人的な趣味趣向のために作成されたものではない。東ゆうとの「共犯関係」のためにまとめられたものだ。
だが、正直に経緯を述べるわけにもいかず、真司の顔は赤くなったり青くなったり、信号機のように色を変えた。
「まあ、いいですけど。こういうのやめたほうが良いと思いますよ」
「はい」
絶対零度の亀井さんの声に、真司は小さくなりながら頷いた。
「他に変な写真撮ってないでしょうね」
亀井さんはため息交じりにパソコンを操作する。何かまずいものはあっただろうか、少し考えてから、真司は慌てて、止めようと立ち上がる。
「あ、あの」
「あ」
亀井さんの口から再び驚きの声が漏れた。
「これは」
画面に表示されていたのは東ゆうの姿。当然カメラ目線のものはすくない。こちらのフォルダは真司の個人的な趣味趣向で作成されたものだった。
より、秘匿されるべきフォルダだった。
「あ、えっと」
だが、亀井さんは今度は何も言わず食い入るように画面を見つめながら、写真を次々に送っている。
「あの、亀井さん?」
その顔には笑顔に見える表情が浮かんでいるように見えた。
「工藤さんって、こういう写真も撮るんですね」
聞こえたのは先ほどと同じ口調、けれども、先ほどより少し熱のこもった声だった。
「え?」
「ねえ、工藤さん」
「はい」
「東ちゃんのこういう写真って他にもあるんですか?」
「えっと」
質問の意図が読み取れず、真司は首を傾げた。
「ですから、東ちゃんの盗撮写真って他にもあるんですか!?」
「ちょっと、声が大きいですよ」
叫ぶ亀井さんを慌てて止める。伊丹さんたちは城の方にいるから聞こえることはないと思うけれども、どこで誰が聞いているかはわからない。
「失礼しました。それで、どうなんですか?」
「いや、そんな。これだけですよ」
「そうですか」
亀井さんは画面に表示された東さんをじっと見つめた。表示されているのは渾身の一枚で、東さんは輝く笑顔を浮かべている。
知れきった判決を待つ、罪人の心持で真司は亀井さんの言葉の続きを待った。
「こういうの本当によくないと思います」
「はい」
「でも、東ちゃんが魅力的すぎるのが悪いっていうのは私にもわかります」
「……はい?」
聞こえてきた言葉に、真司の返事の語尾が上がる。
「あんなにかわいい東ちゃんがいたらそりゃあ写真だってとりたくなりますよね。わかりますよ。わかりますけど、こういうのよくないです。よくないですし、やっぱりへんな写真を撮ってないかっていうのは、東ちゃんの友達として心配になるます」
「あの、亀井さん?」
「だから、ときどきチェックします」
「はい?」
怒涛の勢いで吐き出された判決の結論に真司は自分の耳を疑った。
「ですから、東ちゃんの写真を私がチェックすると言っているのです!」
「亀井さん?」
「それとも、くるみちゃんと東さんにこの写真のこと教えたほうが良いですか?」
「わかりました、喜んでお見せします」
半ば反射的に真司は頭を下げた。亀井さんの要求の理由はわからないけれども、二人に写真のことを知られるわけにはいかない。
亀井さんがにっこりと笑って手を差し出した。
「これで私たち共犯関係ですね」
「お手柔らかにお願いしますよ」
真司はこわばった笑みを浮かべながら、その手を取った。
その手は思いの外柔らかかったけれども、真司はその柔らかさに気を取られるほどの余裕はなかった。