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【発狂頭巾】season7-vol.2 熱狂の群―Rikisha Driver―

極彩色のネオンの映る水たまりを降りやまぬ雨の雫が揺らしている。

タッタ……タッタ……

達者なリズムを刻む足音が水面を乱した。続いてリキシャの車輪が水たまりを切り裂く。跳ね上げられたしぶきが眠らぬサイバーエドの町明かりの中、色鮮やかに照らし出された。

「しかし、旦那、長い雨でやんすねぇ」

「うむ、しかし雨がなくば、草木は育たぬ。人の心のみで考えてはいけないぞ」

「そういうもんですかねぇ」

客席に座った二人組はどこかピントのずれた会話をしている。トラはカミヤ通りを右に曲がりながら、リキシャを引く肩越しに客席を盗み見た。

今晩の客は奇妙な客だった。一人は粗末な服をまとった男、おそらくは岡っ引きだろう。

奇妙なのはもう一人の男だった。同じく粗末な服をまとった大柄な男。顔をすっぽりと覆う不可思議な頭巾をかぶっている。すれ違う通行人たちは一瞬あっけにとられたように男の頭巾を見ると、関わり合いを避けるように目を逸らした。

しかし、注意深く見ると本当に男を奇妙に見せているのは頭巾ではないことに気が付く。ひときわ目を惹くのはその頭巾から覗く男の両目だった。奇妙にギラギラとした虚空のような双眸。何も見ていないようですべてを見透かしているよう二つの瞳。

根源的な恐怖に駆られ、トラはぶるり、と身を震わせた。心もち足を速める。

――早いところ、おろしちまいたいもんだ

目的地の位置を頭の中に浮かべる。

「狂人横丁まででしたっけ?」

「あぁ、そうでぃ。雨の中すまねえな」

「いえいえ、稼ぎ時ですから」

ぞんがい丁寧な岡っ引の答えに、トラは笑顔を作って返す。雨の降る時期は天蓋付きのリキシャの稼ぎ時だ。同僚の中には雨に濡れるからと、雨を嫌うやつもいるが、トラはさほど雨が嫌いではなかった。

――この体がいくら濡れたところで、俺の本当が濡れるわけじゃない

「む!」

トラが取り留めのないことを考え始めた瞬間、頭巾の男がうなり声を上げた。

「どうしました? 旦那」

「とまれ!」

「え!?」

男の怒鳴り声に、トラは思わずブレーキを握った。耳障りな音を立ててリキシャが急停車する。

「そこだ! 行くぞ、ハチ」

「旦那!? ……あー、こいつで足りるかい」

言うやいなや頭巾の男はリキシャから飛び出した。猛烈な勢いで駆け出す男を避けるように、人混みが割れる。岡っ引きが慌てトラに貨幣素子を押し付ける。

「いえ、こんなには」

「釣りはいらねぇ、とっといてくれ!」

言い捨てて岡っ引きも頭巾の男を追って人混みの中をかき分けていった。

「ギョワーーー!!」

人混みの向こうで人のモノとは思えない奇声が上がった。続い悲鳴が聞こえてくる。

面倒ごとは嫌いだ。トラは首を振ってリキシャを引いて走りだす。

人混みの隙間から倒れ伏した男と流れる血、その傍らに佇む頭巾の男が見えた。

◆◆◆

「あ、あ、聞いたことがあるな、発狂頭巾だろ」

「なんだそれ」

ノザキの言葉にトラは疑問の感情を投げ返した。

「知らん? けっこう出回ってると思ったけど」

「だれか知ってる?」

サイバー談話室に問いかけると、知っていると知らないと興味ないのざわめきが入り混じって返ってきた。

「なんか、いるんだってよ。ヤベェ声上げながら人を斬り殺す頭おかしい男」

トラの脳裏に血まみれの頭巾の男の記憶がよみがえる。身震いの予感がサイバー体を震わせる。震えは不可視の色となって談話室に流れていった。

「単純にヤベェやつじゃん。普通に捕まるだろ」

「それが捕まらねぇんだ。調べてみると、ガイシャがなんか悪いことして立ってわかるらしくてよ」

「正義の味方かよ、今時流行んねえだろ」

「違うんだよ。斬り殺した時にゃわかんねえんだよ」

周りで立ち聞きしている連中の戸惑いのざわめきを感じる。トラの感情もその波に混ざっている。

「理由を知らずに悪人を斬り殺す。誰が呼んだか発狂頭巾」

ノザキが不吉な調子でその名を呼んだ。サイバー体の無機質な目はどこか不穏に輝いていた。

――セロリセロリモネモネセロリ

恐る恐るトラがノザキに話しかけようとしたその時に、能天気な音楽が談話室に鳴り響いた。

「ああ、もう時間か」

ノザキが言う。思わず顔をのぞきこむ。その目から不穏な光はすでに消えていた。

「お前も没入の準備しなよ」

「お、おう」

そう言うとノザキは没入口のダイヤルを合わせるとサイバー体を投げ込んだ。01のノイズに分解されてノザキのサイバー体が姿を消す。トラも後を追って没入口に身を躍らせた。

◆◆◆

トラは熱狂の塊の一部となってステージを見つめていた。

ステージの上ではカチューシャとも獣の耳ともとれるような飾りをつけた赤髪の少女が歌い、踊っていた。サイバー界のアイドル、セロリモネだ。彼女のすべての歌声が表現することの喜びを伝え、すべての振り付けが存在することの楽しさを発していた。

喜びの感情は波となってトラたち観客に降り注ぐ。観客は文字通り一体となり、喜びと熱狂を増幅してステージに投げ返す。キラキラと無限に輝くステージの上、モネの歌い上げる歌はより一層熱を帯びていく。。

一つの曲が終わる。ステージが明るくなり、モネは一礼して話し始めた。熱狂の波はひとまず収まり、一斉に彼女の話に傾注する。

「今日は楽しんでくれたかなー?」

活力にあふれたモネの声と、一体となった観客は肯定の歓声を返す。ちゃりんちゃりんと効果音が鳴り響く。周りの観客が投げ銭を投げている音だ。トラは少しのためらいの後少額の投げ銭をモネの投げ銭口座に振り込んだ。

「ありがとー! みんなが楽しんでくれてネモは幸せです。みんなの明日からの活力になってくれると嬉しいなー」

客席全体に満面の笑顔を向けるモネ。トラはモネと目が合ったように感じる。無限の幸福感。気が付くとまた、投げ銭を投げていた。

「それで、今日はちょっとしたお知らせがあります」

再び客席が静かになる。観客という観客が彼女の言葉を聞き漏らすまいとすべての感覚をステージに向けていた。モネが口を開く。

「実は今度……またお話会をすることにしました!」

沸き上がる歓声。会場の閾値を超えんばかりの感情の波が炸裂する。

「申込期間は今日の26時から一週間、みんなに会えるのを楽しみにしてる! 詳細はこの後、また言うからね!。それじゃあ次の曲、行くよー!」

群衆は熱狂に染まる。トラはふと不安を感じる。心もとない口座の残高。二人で話せれば群衆から抜けられるだろうか。それでも、自分はたくさんの相手の一人でしかない。

次の曲が始まる。しぼみかけていた高揚感が再び沸き上がった。熱狂の端に奇妙なものがあるのを感じる。執着じみた光、熱狂とは違う暗い熱の手触り。そちらに意識を向ける。

群れの中から獣がステージへと飛び出した。頭部を覆う頭巾。暗くぎらぎらと光る眼差しはステージ上の少女、セロリモネへと向けられている。

それを見るやいなやトラも観客の群れから飛び出していた。

頭巾の男が刀を抜く。トラは両の足で宙を叩く。リキシャの重みも肉体の重みもない軽さ。加速する。時間が鈍化する。振り上げられる刀に映るモネの見開かれた目。刀の下に身を滑り込ませる。かざした手が切り落とされる。モネに覆いかぶさる。二度三度背中を刃が通り過ぎる。力が抜けていく。トラの意識が霧散する。

モネが何か叫んでいるのが見える。

――ああ、本当に俺を見てくれている。

トラは微笑みを浮かべようとする。その努力を確かめる前にトラの意識は消えていった。

消えゆく意識の中、トラは遠くに奇妙な音を聞いた。

◆◆◆

「ささ、先生こちらへ」

今日も雨は降りやまない。太った男が連れの痩せた男に傘を差しかけられながらトラのリキシャへ乗り込んできた。ぎしり、とリキシャがきしむ。

「満月亭へ、急いで」

「へい」

横柄な男の口調にムッとするのを抑えて、トラは静かにリキシャを走らせる。

腹立たしい相手ほど払いは良い。この業界の常識だ。上手くいけばチップももらえるかもしれない。ネモのお話会の申し込み料と口座の残高が頭に浮かぶ。いつもより心もち丁寧にリキシャを運ぶ。

「それで先生、例の件考えていただけましたか」

痩せた男が揉み手をしながら大柄な男に話しかけた。甘ったるくへつらう声。『先生』と呼ばれたは、ぐへへと下品な笑い声を上げながら答える。

「他のところからも話は来とるからのう」

「まあ、まあそうおっしゃらずに……あ、そうだ、先生、甘いものがお好きでしたよね」

ごそごそと鞄を探る音がする。交差点で止まったトラがちらりと後ろを覗くと、痩せた男は華麗なビスマス鋼柄の箱を差し出していた。『先生』は箱を受け取り、箱を開けるとニヤリと口をゆがませた。

「考えておこう」

「ありがとうございます」

「しかし、お前のところにしかできない誠意と言うのもあるよなぁ」

『先生』が目を細めると、痩せた男は火がつかんばかりに揉み手をしながら答える。

「ええ、ええ、勿論ですよ。きっとご満足いただけると思いますよ」

「そうかそうか。それは楽しみじゃわい」

その顔に遠くの記憶がよみがえる。かつて蕎麦屋で読んだインタビュー記事に載っていた荒い写真。セロリモネを売り出している商会の番頭。ギラギラと野心に満ちた目の光を消して、へつらう笑みを張り付ければ、今リキシャの客席で揉み手をする顔になる。

「今日はとっておきをご用意しておりますから」

「お主も悪よのう」

ぐふふと、『先生』は不気味に笑う。

クラクションが鳴る。気が付くと交差点は空になっている。

「おい、何をしている。遅れたらどうしてくれるんだ」

痩せた男が怒鳴る。

「すみません」

頭を下げて、トラは雨の路地を目的地へと走り出した。

◆◆◆

「失礼します」

緊張をはらんだ澄んだ声とともに、座敷の障子が開いた。

「おお」

振り返った『先生』の目に一人の浴衣をまとった少女の姿が映る。獣の耳ともヘアカチューシャともとれる髪飾りを燃えるような赤髪に飾った少女だった。

「よく来たな、ちこうよれ」

「はい」

おずおずと進んできた少女を『先生』がぐいと抱き寄せる。少女は引きつりかけた顔を伏せる。

「そう硬くなるな。なかなかの上物だな……いいだろう、いくらでも名を売らせてやる」

「ありがとうございます」

『先生』はぐふふと笑い、浴衣の帯に手をかけた。

「あ」

「よいではないか、よいではないか」

『先生』脂ぎった笑みを浮かべながら帯を引いた。少女がくるくると回るにつれ帯がほどけていく。

「ギョエーーーーー!」「グエーッ!」

帯が完全にほどけ、少女が浴衣をかき抱いて蹲った時、廊下から耳をつんざく奇声が響いた。続いて、用心棒のものと思われる悲鳴。

「なんだ! 貴様は!」

造園の用心棒たちの足音が廊下に響く。

「ギョエーーーー!」「グワーッ!」「ギョエーーーー!」「グワーッ!」

再び奇声、そして悲鳴。次第に近づいて来る。

「先生は、こちらでお待ちください」

座敷の下座に控えていた痩せた男が廊下に姿を消した。

「ふん、わしの命を狙いに来た曲者か」

『先生』は懐から黒い巨大な銃を取り出し、弾が装填されているのを確認した。部屋の隅で震える少女に言う。

「怖いか?」

少女は首を振る。

「まあいい、何者であろうとわしを殺せるものはない」

『先生』は少女を部屋の奥に押しやると、部屋の電気を消した

「グワーッ!」

障子が吹き飛び、血まみれの男の体が投げ込まれた。用心棒の一人だ。少女の顔が恐怖に引き攣る。

「ギョエーーーー!」

奇声が響いた。庭の明かりを背に侵入者のシルエットが姿を現す。頭巾のシルエットにギラギラと目が異様に輝いている。右手には抜身の匕首。左手には首のない死体。

「おぉうじょうせいやぁ!」

ゴンゴンゴンゴンゴンゴン!

『先生』は狙いを定めると立て続けに6発、シルエットに向かって発砲した。襲撃者の目が暗闇に慣れないうちの堅実なアンブッシュ。確実な致命傷狙い。

襲撃者は左手に引きずっていた死体を盾に致命傷を防いだ。4発の銃弾が死体にのめり込み、残りの二発が襲撃者を掠めた。

「なに!?」

襲撃者は死体を投げ捨てると匕首を構え驚愕の表情を浮かべる『先生」に肉薄する。匕首の刃が闇に閃いた。

「グワーッ!」

予備の銃を取り出そうとしていた『先生』の右腕が落ちた。襲撃者は『先生』に体当たりをして体勢を崩す。そのまま馬乗りになると首元に匕首を突き付けた。

「なんだ、貴様は! どこの組のもんだ」

『先生』がわめく。

「おれは……」

襲撃者が口を開いた。

「正義の執行者だ」

「はん、キチガイが」

「狂ってるのは、お前の方さ」

襲撃者が匕首を横に引いた。

ぱぁん!

『先生』の首から血が噴き出る同時に乾いた破裂音が響いた。

「てめえ」

続いて襲撃者の首に空いた穴から血が流れ出る。『先生』はにやりと笑って左手に構えていた仕込銃を力なく落とした。

襲撃者が立ち上がろうとして、倒れる。ヒューヒューと息苦しそうな音が漏れる。

「あなた、だあれ?」

少女が呆然とした顔で尋ねる。襲撃者に近づき、頭巾を外す。

「あんたの……ファンさ」

血まみれになった頭巾の中でトラは苦しそうに声を絞り出した。

少女はトラの頭を抱き締める。少女の腕のなかでトラの息はだんだんと弱くなっていった。

薄れゆく意識の中、トラは庭の暗がりの人影に気が付いた。頭巾を被ったその人影はギラギラと輝く虚空のような目で座敷を見つめていた。

どこか遠くで、奇妙な音が聞こえた。


◆◆◆

「大丈夫か?」

「ん、ああ、ちょっとぼんやりしてた」

ノザキに声をかけられてトラは我に返った。外は雨が降り続いて凍える寒さだった、待合室は暖かすぎるほどに暖房が効いていた。

「何の話だったっけ」

「だから、おめえ、何番だったかって」

「ああ、42番」

「二桁? すげえな」

久しぶりに肉体で会うノザキは相変わらず緩み切った身体をしていた。企業ハッカーをしていると聞いたことがある。噂話が好きなのも職業柄だろうか。実在の待合室は、サイバーの部屋よりもざわざわと曖昧な会話に満ちている。

「そっちは?」

「83番」

「おめえのも二桁じゃん」

豊満な腹の肉を掴みながらトラが言うと、ノザキはへへとにやけた笑いを浮かべた。

「まあ、次もあるかどうかわかんねえからよ」

「なんかあったのか?」

「いや、ここだけの話だけどよ」

ノザキは辺りを見回してトラに顔を近づける。他の集団は自分たちの話題に夢中でこちらの話にプロープを伸ばすやつらはいない。ノザキは子をを潜めていった。

「番頭が殺されたんだって」

「え?」

「通り魔だってよ。道歩いてるところを、撃たれたらしい」

トラの鼓動が一際高く鳴る。調子を抑えて尋ねる。

「モネちゃんのところの番頭?」

「ああ、犯人まだ見つかってないんだって」

「良く開けたな、この会」

トラの声には少し疑いの色が乗っていた。辺りを見回す。客にも従業員にも緊張した様子はない。

「まあ、金も掛かってるだろうし、商会も中止にはできんのだろ。それに、結局番頭の一人や二人、代わりもいるだろうしな」

「そんなもんかね」

トラはごくりと、唾を飲み込んだ。荒くなりかける息を、意識して抑える。

「どした? 顔色悪いぞ、大丈夫か?」

ノザキがトラの顔をのぞきこんで聞く。トラは顔をごしごしと手でこすって答える。

「ああ、最近、飯減らしててそのせいかな」

「なんだよ、ダイエットか?」

「それはお前がしろよ。ちがう、この会のために食費削ったんだよ」

「おいおい、自分の生活水準落としちゃいかんって、モネちゃんも言ってるだろ」

「まあ、死にはしないさ」

トラは笑いの表情を作る。ほどほどにな、とノザキも笑った。

「えー、それでは40番から45番の方、いらっしゃいますかー」

スタッフが声を張り上げる。部屋の各所から歓声が上がる。トラも手を上げる。

「お、じゃあ、行って来いよ」

「おう、またな」

トラはノザキに手を振って、列に並んだ。

◆◆◆

「それでは5分経ったら声をおかけしますので」

体格のよい係員は厳しい顔で説明を終えると、扉を開けた。大理石をあしらった部屋。目隠しに吊るされた薄布を抜けて、奥へ進む。

光沢のある黒い木の机の前に白い椅子。椅子には一人の少女が座って窓の外の降りしきる雨を見ていた。トラは息を呑む。豊かで儚い空気をまとった体。燃えるような赤髪。アイドル、セロリモネ。

「いらっしゃい」

モネが振り返る。髪飾りが揺れる。獣のような耳かカチューシャか、実物を見てもわからない。

「ええ、どうも」

「……座ったら?」

立ち尽くすトラにモネが言う。

「いや」

「それでいいならいいけど……まあ、五分なんてすぐだもんね」

本当はもっと話したいんだけど、とモネは笑顔をトラに向ける。トラは何か言おうとする。言うことは決めていたのだ。唾を飲み込む。

「いつも応援ありがとうね。ライブにもよく来てくれてるよね」

「知ってるの?」

「知ってるよー、あたりまえじゃん」

データを見たのだろうか。そんな考えが頭に浮かぶ。

「ライブの時ってね、結構お客さんの顔見えるんだ。だから、あなたのことも見えてるよ。前の時、目あったよね。確か……ジーンサバイバーの時」

トラは驚く。先日のライブ、確かにその曲の時に目が合ったような気がした。あれは気のせいじゃなかったのだろうか。

「でも、今日は貴方のことを知りたいな」

モネが座ったままトラの顔をのぞきこむ。ライブの時に遠くに見た瞳が自分を見つめている。息を吸って、吐く。言おうと思っていた言葉を紡ぐ。虚空へ跳躍するような緊張。

「一緒に逃げ出さないか?」

「え?」

「君はここに居たら幸せになれない」

「私は幸せだよ」

「本当に?」

モネの笑顔が困ったように固まる。

「……本当だよ。歌って、踊って、みんなが私を見て喜んでくれて。これより幸せなことなんてないよ」

「ヒヒみたいな親父に接待をしてでも?」

「なんで、それを」

モネの目が見開かれる。トラはモネに歩み寄る。手をそっと握って小さな声で訴えかける。

「もう、やめよう。こんなところ逃げ出して、静かに暮らそう」

「無理だよ」

「無理じゃない。無理なんてない。君を連れてなら、どこへだって行ける。なんだってできる」

「でも……」

「こんな街は捨てて。どこか遠くの町で静かに暮らそう。そうすれば嫌なことなんてしないで済む」

二人は黙り込み、見つめ合う。外の雨の音だけが部屋に響く。

「お時間です」

扉の外から係員が声をかける。

「離さないで」

モネがトラの手を握る。トラは頷く。

懐から頭巾を二つ取り出した。一つをモネに渡し、一つを自分で被る。

「これを」

頷いたモネが頭巾をかぶるのを見ながら、トラは足首に巻き付けていた匕首を外し握りしめた。予備の匕首をモネに渡す。

「これも、いざというときに」

「お客様、お時間です」

係員が部屋に入ってくる。匕首が閃く。血が噴き出す。部屋の薄布が赤の水玉に染まる。

「行こう」

覆面の二人連れが廊下を走る。

「待て!」

異変を察知した係員や用心棒が二人に追いすがる。右に、左に。近づくはしからトラが切りつける。匕首が閃くたびに廊下は血しぶきが上がる。

待合室に出る。血まみれの二人を見て客たちは悲鳴を上げて逃げ惑う。客を押しのけて、かき分けて待合室を抜ける。

「お前は!」

勇敢な客は二人を止めようとする。大柄な客が緩慢な動きで進路をふさぐ。どこかで見た覚えのあるたるんだ腹。

「悪いな」

押しのける手を切りつける。立て続けに両の太ももを切りつける。赤い血が噴き出る。足の力が抜けて落ちてきたからだ、喉を切りつける。二人に熱い血が降り注ぐ。頭巾が赤く染まる。

死体を押しのけて出口に向かう。

あと少し、五歩、四歩、三歩、門番を切り伏せる、二歩、一歩、扉に手をかける。押し開く。雨の音。冷たい空気。外の光。

ドスリ

トラの腹部に衝撃が走った。わき腹の痛み、振り返る。

「やっぱり、だめだ。ごめんなさい」

トラは自分のわき腹に突き刺さる匕首を見た。その匕首をモネが両手で握っている。

「なん……で…」

傷口を抑え、よろよろと外へ歩み出る。足の力が抜けていく。体が崩れ落ちる。ぬかるんだ地面と降りしきる雨の冷たさ。

扉の中から頭巾が冷たく見下ろしている。口が動いている。

「この人、頭おかしいのかな」

――おかしいのは……

トラは答えようとする。声は音にならず、雨の中に消えていった。

どこか遠くで奇妙な音が聞こえた。


◆◆◆

「やってるか?」

ノックの音でトラは目を覚ました。客席を掃除している最中に眠り込んでしまったらしい。お話会の興奮で夕べは遅くまでノザキと話し込んでしまった。見上げると、傘をさした客がのぞきこんでいる。

「ああ、ええ、すいません。ちょっと掃除を」

「この子をアザラシ通りまで」

「ええ、はい」

慌てて客席を拭うと、リキシャから降りてハンドルを握る。

「気をつけて」

声をかけられて客席に客が乗る。ずいぶんと軽い。そっと振り返る。女性、それも子供だ。野暮ったいコートに大きな帽子を被っている。

「これで足りるかな」

傘の男がトラに貨幣素子を渡した。トラがメーターで読み取る。出てきた数字にトラは声を上げる。

「多すぎますよ」

「お釣りはとっといてくれ。安全運転で頼むよ」

そう言って男は去っていった。トラは頭を掻いて貨幣素子をしまい込んだ。

「それじゃあ、行きますよ」

慎重にハンドルを持ち上げて発進する。技巧を尽くした滑らかな加速。しぶきの一つも上がらない。せっかくチップをもらったからにはよりよい運転をしていきたい。

「雨、やみませんね」

乗客は答えない。客の中には沈黙を好む客も珍しくはない。トラは肩をすくめて黙り込む。

珍しく道は混んでいない。止まることなく目的地へ進んでいく。

サイバー河童橋にさしかかったとき、一際大きな風が吹いた。乗客の帽子が吹き飛ばされる。

「あ」

伸ばしたトラの手が帽子を掴んだ。

「大丈夫ですか?」

「ええ、ありがとう」

トラは道端にリキシャを停めると振り返った。帽子を差し出そうとした手が止まる。

あらわになった乗客の髪は燃えるような赤。その上部には獣の耳かカチューシャかよくわからない飾りが乗っている。

「あなたはもしかして」

少女は帽子を受け取り被り直すと、首を振り、微笑みながら唇の前に指を立てた。

トラは「あ」と「え」とその中間のような音を発しながら、結局意味のあることは言えずに頷いて、ハンドルを握ってリキシャを走らせた。

◆◆◆

道を行く二人の男の脇をリキシャが通り過ぎていった。一人がふと立ち止まり、遠ざかるリキシャを見つめる。

「どうしたんですか、旦那」

「いや、なに。案外どんな人間も少なからず狂気を内に宿しているのかもしれんと思ってな」

「はあ、そんなもんですかね」

「うむ、お前も、わしも、あいつも等しく狂っておるのかもしれんな」

頭巾を被った男の怪しく光る両目の見つめる先で、雨の中のサイバー江戸を一台のリキシャが静かに走り去っていった。

【おしまい】

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