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皮肉の話
猛烈な喉の渇きで目を覚ました。耐え難いまぶたの重みと頭の痛み。
目を開ける。知らない天井。しばらく見上げて気づく。これは天井ではない。つるりとした塗装の金属の板、その向こうに青い空。
空?
身体を起こす。ざらりとした土の感触を手のひらに感じる。
「どこだ、ここ」
聞こえるのは川のせせらぎと虫の声。
見回せば、ここは橋の下、川原が広がっている。
記憶をたどる。
行きつけの安酒屋に入ったところまでは覚えている。その後に何杯か飲んだところで記憶があいまいになっている。体のだるさから推測するに、記憶の途切れた後もずいぶん飲んで、この川原で力尽きたのだろう。
記憶をなくすほど飲むのは久しぶりだ。
気を抜くと下がってくるまぶたをこする。ふと、手に違和感を覚えた。
にちゃりとした湿った感覚。
両手で顔をなでる。いつもの皮の乾いた感触ではない。この感覚は、なんだろう。初めて触るものではない。そうだ、これは肉だ。
指先に感じるのは生肉の手触り。しっとりと湿った、なまなましい肉。
川際まで這う。体の節々が痛い。川をのぞきこむ。
穏やかな水面に人影が映る。
剥き出しの肉がこちらを見返していた。
誰だ?
口を開けば、向こうも口を開く。片目をつむれば、向こうもつむる。
するとこの肉は私なのだろうか?
いや、そんなはずはない。私はこんなのっぺらぼうではないはず。私の顔はたしか……?
思い出せない。
必死に記憶を探る。焦れば焦るほどに記憶はかすれていく。幽かに残った印象は酔いの帳の向こうにかき消えてしまった。
なんてこと。私は私の顔をなくしてしまったのだ。
顔が人間を形作る。であれば、私の顔をなくしてしまった私は、私であるということをなくしてしまっても不思議ではない。
いまや、昨日の記憶さえ微かだ。確かな記憶さえあれば、昨日の酔いどれ足を辿り、落とした顔を見つけることもできるかもしれないというのに。それとも、道端に私の顔が落ちていても、私はそれと気がつかないだろうか。
頭の中を吹き荒れていた狂乱と焦燥が去ると、落ち着いた諦めがとってかわった。
もうどうしようもない。
これからは顔のない人間として生きていくしかあるまい。
楽な道ではないだろう。私が私であるよりどころはどこにもない。免許証だって、パスポートだって、顔のない私の身分を証明してくれはしない。けれども、本当はそんなものはいらないのかもしれない。私自身が私を私であると知ってさえいれば、私は私でいられる。
いつか町で見た男の姿がやけに鮮明に頭に浮かんだ。道路の向こう側をぽつりと一人で歩く男だ。男は肉の仮面をつけていた。
その奇妙な風体にもかかわらず、男は町の風景になじんでいた。ともすれば何の印象もなく見逃し、一瞬の後には忘れてしまっていそうな。
あれは、きっと男が自分が自分であることを確かに感じていたからなのだろう。その顔は自分自身の顔ではなく、肉の仮面に過ぎないというのに。
私もいつか彼のようになれるだろうか?
萎えた脚に力を入れる。地面についた手は震えながらも、体を持ち上げる。揺れながら、ゆっくりと立ち上がる。
土と少しの吐しゃ物のついたコート、カーキのシャツに黒のスラックス。それだけが私の持ち物。充分だ。ここから始めよう。
私は橋の影から、一歩、日向へと足を踏み出した。
まぶしい日差しが皮のない私の顔を刺す。アルコールの残る体には強すぎる光。思わず身をこわばらせる。こわばりは胃を締めつけ、中身を食道へと押し上げた。
たまらず川岸へ駆け寄る。口を開くと水っぽい流動体が勢いよく流れ出た。酸っぱい香りが口の中に広がる。
その匂いに誘われて、さらに胃の中身の逆流は続く。
大きなえずき声が橋の下に響いた。
「ごえっ!」
ひときわ大きくえずく。中身をすべて吐き出して嘔吐は終わった。
唾液でできるだけ口の中をすすぎ、川へ吐き出す。
流れの緩やかな川の水面に色鮮やかな半固形物が漂っている。その匂いに顔をしかめながらも、なんだか親近感を抱いて、しげしげと眺めてしまう。
拡散していく花の中、散らばらずに浮かび続ける塊があるのに気が付いた。目を凝らす。
奇妙に見覚えのない顔が、揺れながら私を見つめていた。
【終わり】