待てど、探せど、
柔らかな静寂が押舞銀座通りを満たしていた。
ショーウィンドウに取り残された商品や、壁に貼られたポスターの色褪せた笑顔の切れ端が遠い日の賑わいを偲ばせる。
どれももう遠い昔の残滓に過ぎないけれども。
喇叭が鳴り響いて、見えない雨の降り注いだあの日から、ショーウィンドウに目を輝かした子供たちも、ポスターを見て頬笑みあったカップルも、みんないなくなってしまった。
風さえも立ち去った商店街の広場にぽつんと朽ちかけたベンチがあった。錆びついた金属部分をやせ細った木材がかろうじて繋ぎとめている。
ベンチには一人の女性が腰かけていた。
簡素な布の服。防護服ではない。古びてはいるけれど手入れのされたブラウス。寝押しの効いた紺のスカート。傍らの地面には小ぶりな買い物籠がおかれている。
女性はぼんやりと遠くを見ていた。ぴんと背筋を伸ばし、じっと動かない。まるで熱心な歩哨。いつからそうしているのだろうか。買い物籠には苔に薄く青く染まり始めている。
けれどもよく見たならばその目が細かく動いているのがわかるだろう。彼女の目は何かを探すように商店街を見渡していた。動く者のない商店街を。
彼女は待っていた。誰を? 誰かを。問いは彼女に空白を返す。嫌な空白。だから彼女はしばらく自身に問いかけていない。彼女は誰を待っているのか忘れてしまったのかもしれない。それともその誰かが彼女のことを忘れてしまっているのかもしれない。それでも、彼女は誰かを待っていた。ずっと、ここで、彼女はただ待っていた。
誰かを待って、商店街の彼方を見つめていた。
突然、その両目が大きく見開かれた。瞳孔が広がり、収縮する。
商店街の果てに焦点が結ばれる。その先には小さな影があった。
人の形をした小さな影。
影の方も女性の姿を認めたようだ。女性の方へ、ゆっくりと歩いてくる。
女性は何も言わず、身動きもせずに、自分に近づいてくるのを見ていた。
「こんにちは」
大きく三歩くらいの距離で立ち止まり、影は声を発した。礼儀正しく落ち着いた声。そろりと黒い尻尾が揺れる。
少し間があって、女性は応えた。少しひび割れて乾いた声。声を出すのはずいぶん久しぶりだった。声をかけられることも。
「おかえりなさい」
それでも言葉は口からこぼれ出た。ずっと言いたかった言葉。言おうと思っていた言葉。
「ここは私の家じゃないよ」
ぴこぴこと三角の耳を動かしながら来訪者が答えた。人間の姿に見えた。人間の子どものように。けれども、と女性は首をかしげる。人間の子どもにこのような三角の耳や長い尻尾はついていただろうか。そのような部分はもっと小さな生き物にしかついていなかったような記憶がある。小さくて柔らかな生き物。膝の上の温かさ。
「それじゃあ、どうしてこんなところに来たの? お外は危ないよ」
「もう雨なんて降らないよ」
子どもは空を見上げた。白くて清潔な薄い雲が、陽光を穏やかに遮っている。見えない雨を降らす緑の雲の影はない。
「突然降るかもしれないのだから」
「でも、お家は退屈なんだもの。ずっと一人でお勉強ばかり」
子どもは口を尖らせた。
「だから、お外に出かけてみたの」
そう言って子どもは女性の隣、ベンチの残骸に腰かけた。三角の耳がゆるりと左右に開く。目をつむり伸びをする。
「ここは暖かくて気持ちがいいね」
「そう」
女性は困ったように答える。自分が待っていたのはこの子どもではないように思えてきた。それなら彼女はどうするのがよいのか、とるべき行動を思いつけないでいる。
「あなたは」
子どもはちらりと買い物籠に目をやった。女性は思わず買い物籠を引き寄せた。子どもは、とらないよ、と笑って続けた。
「あなたは何をしているの?」
「私は待っているのです」
半ば自動的に女性は答えを返していた。
「誰を?」
「誰かを」
今度も隙間のない返答。
へえ、と答えると、子どもはそれきり興味をなくしたように目をつむった。張り詰めた女性の勢いは沈黙の中に惑い消えてった。子どもの滑らかな黒い髪に陽光が降り注ぐ。
少し間が開いて、女性は躊躇いがちに口を開いた。
「あなた以外に、外に出てきた人はいるのですか?」
「さあ」
のんびりと子どもは短く応えた。ゆらゆらとベンチの端でしっぽが揺れる。
「私は会ってないよ」
「そう」
今度は女性が短く答えて黙り込んだ。かすかに肩が落ちる。別に落胆したわけではない。落胆するようなことでもない。今まで待ってきたのだから、これからも待てばよい。結局のところ、何かが変わったわけではないのだ。
頭を軽く振って、背筋を伸ばす。もう一度、遠くを見る。商店街の彼方に目線を送る。
「ここで待ってるの?」
遠くを見渡す女性を見て、子どもは薄目を開けた。女性は視線を落とさないで答える。
「ええ、私はここで待ちます。待っています」
「ずっと?」
「ええ」
「そっか」
「あなたは?」
「もう少し、ここにいる」
「そうですか」
女性は少しだけ安心したように答えた。ここは心地が良いから、と繰り返して、子どもは再び目をつむった。やがて心地よさそうな寝息を立て始める。
その寝顔を女性はじっと見つめる。記憶にある限り初めての来訪者だった。自分が待っていたのは本当にこの子ではなかったのだろうか? そんなことを考えて、首を振る。誰を待っているにしろ、待ち人を見かけたならきっとわかるだろう。そう思う。思うことにする。
本当に? かすかな疑念が頭に浮かぶ。「誰を待っているの?」 問いかけへの答えの参照先は空白。不穏な空白。嫌な空白。その空白には本当に何かが隠れているのだろうか? 忘却、あるいは消失。すでに失われたということはまさかないだろうけれども。ないはずなのだけれども。
隣で眠るつややかな黒髪を眺める。擦り切れて押しつぶされた空白の中にかすかな手触りを感じた、気がした。探ろうとする。その間に手触りはするりと流れ去っていった。
「なんだろう」
ひょう、と高い音がした。割れ落ちて骨組みだけになった看板を風が通り過ぎていった。空を見上げる。目を見開く。
「あ」
急いで子どもを揺り起こす。
「起きて」
「なあに」
不機嫌そうに子どもが答える。
「行かないと」
気にせず、女性は子どもを無理に立たせる。
「ほら」
女性は空を指さす。遠くの空に暗い緑が見える。空を飲み込むような鈍く濃い緑の雲。
「なんで今さら」
子どもは不機嫌そうに呟く。
「急がないとすぐに降り始めますよ」
「あなたは?」
「私はいいの。平気だから」
「そう」
口をへの字に曲げて子どもは応える。しっぽがぱたぱたと細かく揺れる。
「お家に帰りなさい」
「ねえ、それなら、お姉さんも来てよ」
子どもは言った。縦長の目がじっと女性を見つめる。女性はぎゅっと買い物籠を引き寄せて答える。
「だめですよ。私はここで待たないといけないんですから」
遠くに見える緑色はだんだんと大きくなりつつある。この子どもの住処がどこかはわからないけれども、雨の降りこまない深さまで下りるのはずいぶんと時間がかかるはずだ。
ああ、と子どもが目を細める。
「それが重いなら、持ってあげるよ」
その目線の先には買い物籠。じっと狙いすます眼差し。女性はぎゅっと買い物籠を抱きしめた。
「いいですよ。はやく帰りなさい」
「そう」
子どもは短く呟いた。ぴょん、と立ち上がり、女性に背を向ける。
「それならいいや。それじゃあね」
あっさりとそれだけ言って、子どもは軽く伸びをしながら歩きだした。
「あ」
女性の口から小さく声が漏れる。漏れただけ。言葉は続かない。
子どもには聞こえなかったのか、聞かなかったことにしたのか、すたすたと歩き姿を消した。どこかこのあたりに防雨壕の入り口があるのだろうか。女性はぼんやりとそんなことを考える。
空が次第に暗くなってくる。穏やかだった陽光が獰猛な緑に染まり始める。雨はもうすぐ降り始めるだろう。見えない雨が。
雨は彼女にとって恐ろしいものではない。
本当に恐ろしいのは、
去っていった背中を目で探す。もう姿は見えない。初めての来訪者。もしかしたら最後の来訪者。滑らかな黒髪。柔らかな手触り。空白に流れていった感触。
立ち上がる。あたりを見渡す。ずっと見慣れた風景。あの背中はどこに消えたのだろう。あの手触りは。
本当に恐ろしいのは、本当は誰も待っていないのを知ること。
胸に抱いていた買い物籠を右手に持ち直す。
一歩踏み出す。それだけで視点は変わる。見慣れた風景は少しだけ姿を変える。もう一歩。
右手に揺れる買い物籠の中、詰めこまれた骨がかたりと軋んだ。
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本作品はむつぎはじめ氏の主催する。
【むつぎ大賞2023】への参加作品です。
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