母を看取りたい#12
としちゃんの人生
としちゃんは退院してからせん妄状態が続いています。
昼夜逆転というより、ずっと起きています。
私は夕食後の片付けをした後、一度自分の家に帰って入浴し、洗濯を終わらせ乾燥機に入れてから、21時頃としちゃんの家に行きます。
としちゃんはリハビリパンツと尿取りパットをしていますが、トイレに行きたい言うので体を支えながら連れて行っています。
昨夜はずっと一人で話しており、
何を言っているのかそばに行って聞いてみると子供の頃の辛かった思い出でした。
それはとしちゃんが小学校の低学年の頃、母親に「おばあちゃんの家に行ってお米をもらっておいで」と言われ、片道2時間くらいの道のりをバスに乗って山道を歩き、往復した話しでした。
としちゃんの母(私の祖母)はかなり裕福な出で、お嬢様育ちでした。
婿養子を取ったのですが、夫になった男性は体が弱く商売をしていた実家の仕事が負担で2人で夜逃げをしたそうです。
その後、夫は戦争に行きとしちゃんが2歳の時に戦死しました。
未亡人となったとしちゃんの母は、実家に戻る事もできず、働きに出で3人の子供を育てました。
中には「子供1人ならもらってやるから」と養子の話もあったそうですが
としちゃんの母はなんとか自分で育てようと
男性に混ざってお金のいい材木屋などの力仕事をしていたそうです。
それでも暮らしは貧しく、食べる事に困り子供たちが交代で母の実家に米などをもらいに行ったそうです。
大木への道
としちゃんがよく、大木へ行った話しをしてくれました。
大木は苗字でも土地の名前でもないので屋号だったのでしょうか。
これまでは大木への道のりが遠く大変だったと聞かされていたのですが、
昨夜、としちゃんは大木へ行った話しをしながら涙を流して「死にたいほど辛かった」と言っていました。
なんでうちにはお金がないんだろう。大木の子供になって分校に通いたいと思った、でもそんなことしたら母が悲しむよっておじいちゃんに言われた。大人になったらお腹いっぱいに美味しいものを食べたいと思った。
お腹が空いていたけど、兄さんが食べるんだから我慢しなさいと言われて辛かった。
兄さんも卓球で県大会に行ったけど、母が卓球なんか頑張ったって金にならないから働くよう言った。勉強したって金にならない、早く働いてほしいと言われた。
としちゃん達3兄妹は同じくこの頃のことが忘れられないそうです。
としちゃんの姉のけいちゃんも、「トラウマになる」と言っていました。
けいちゃんは母に「大木で米を3升もらって来い」と言われていたのに、おばあちゃんに2升しかないと言われ、このまま帰ると母に怒られると子供ながらに苦しかったと話していました。
としちゃんは昨夜初めて、この頃のことを死にたいほど辛かったと言っていました。
子供が死にたいと思うほど、貧しかったのでしょう。
私と弟はとしちゃん夫婦に、何不自由なく育ててもらいました。
2人とも真面目で、中小企業に勤めましたが
コツコツお金を貯めて子供を育ててくれました。
今でもとしちゃんは何度も
「今日の晩御飯は何にするの」と聞きます。
としちゃんはいつも、家族にいろんな料理を作ってくれました。
今思うと、としちゃんのこだわりは食事だったと思います。
それは としちゃんが子供の頃に感じたひもじい思いを自分の子供にさせないように、
がんばって働き、お金を稼いだのだと思います。
私はとしちゃんの子供に生まれて幸せです。
だから、としちゃんの人生の終わりに
お付き合いしたいのです。