感謝とは「するもの」ではなく「湧き上がる」ものを実感して
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昔スピリチュアルリーダーから「ありがとう」を数多く言った結果、街中で感動が湧き上がり大泣きした話しを聞きました。
感謝は「する」ものではなく「湧き上がる」ものと聞きいて知識として残っていました。
私は毎年8月と12月に聖地に行っていましたが今回の8月は職場で疑陽性の発覚があったので自宅に居て12月に1年ぶりに行きました。
新しく来られた特異能力を持った方が「眩しい光が見えたり」「温かく包まれている」と感動されていましたが、私には実感がありませんでした。
今回1年ぶりの参拝であたかも水から打ち上げられたサカナの如く水のありがたさを感じました。ヒトで言えば空気の有難さでしょうか?
サカナは水中にヒトは空気中に居て生きられますが、それらの大切さは日頃は気づきませんがサカナが丘にあげられ時、ヒトが何かの拍子に酸欠になった時にその価値を知ります。大切なものに気づいたとかは時既に遅しの場合が多いです。
神と呼ぼうが大いなる存在と呼ぼうが自由ですが、人間以外の存在に生かされています。宗教家はその事を解いて布教したりスピリチュアルリーダーはセミナーを勧めたりします。
それらは1つの手段で目的はその存在に気づき、体感して生きる事かと思います。私は宗教やセミナーを勧めるためでなく気づく事で人生を楽しく有意義に生きれるように思っています。
おまけ-与え合う幸せ
湧いてきた想いをもう1つ紹介します。
人は自分の為に金や物を握りしめるよりヒトに分かち合った方が幸福感が増し幸せになれる法則があります。
自分が親で子供が2人居るとします。1人の子供はお菓子もオモチャも独り占めして抱えきれないほど有っても友達には1つも分けない。
もう1人の子供は親から貰ったものを全て友達にあげて自分の所に何も無くても嬉しそう。それを見た親は友達にあげてしまう子供に全員に配っても余りあるようにお菓子やオモチャを与えます。
独り占めしている子供は可愛く無いわけでないですが充分過ぎて新しいものが入れられないしお腹を壊してしまうから一時ストップします。
天国と地獄の長いなしの寓話でも同じ食事と箸があっても想い次第で天国化したり地獄化したりする。
どちらを選びかは自由ですが私は天国の方がいいです。^_^