12/1 コーヒーやビールが飲めたら大人なのかな
毎日日記というものを続けられた試しがないのだけど、とりあえず今日も書いてみる。
今日の仙台はとても寒かった。全国的にそうなのかなあ。昨日は少し寒い程度だったのに、12月に入ってから途端に、更に寒さが強まったように感じられる。
お昼ごはんを一緒に食べた知人は、今日冬物コートを出したと話していた。よく観察してみると街を行き交う人々もみんな冬の装いである。
冬になるとカフェなどでも温かい飲みものを頼みたくなる。昔はロイヤルミルクティーやナントカラテといったような甘いものを好んでいたが、コーヒーがブラックで飲めるようになってきてからは、圧倒的にコーヒーを頼むことが多くなった。とうとう大人の味覚とやらになったのだろうか。
「大人の味覚」と言えば、コーヒーの次に思い浮かぶのがビールだ。ほんの少し前まではコーヒー同様ビールのこともそんなに好きではなかった。飲み会でも一杯目の「とりあえず生で」にだけ付き合って、あとは見向きもしなかった。それが突然「大好き」にカウントされるようになるのだから不思議だ。
けれど「大人の味覚」を手に入れても、なかなかなれないのが「大人」ってやつである。
此処でひとつ、告白させてほしい。
今日、わたしは、母を泣かせてしまいました。
自分はいつも愚痴を聞いてもらってるくせに、母のソレは「ハイハイ」とおざなりに受け流し、剰え月経前夜のイライラを彼女にぶつけるという愚行を犯してしまったのだ。
そして「あ、」と気付いた時には、母ははらはらと涙を流していた。
正直罪悪感で胸どころか全身がいっぱいになったし、いまも後悔で鳩尾が苦しい。
そんなことが許されるのはティーンまでじゃない?と脳内で母のことが大好きないつかの幼いわたしが眉を釣り上げる。確かに二十も半ばを過ぎた「大人」がすることではなかった。と、いまのわたしも思う。
「大人」の定義は人それぞれあると思うが、わたしの考える「大人」というのは、少なくとも単に「肉体的にひと通り成長し切った人」では無さそうな気がする。
じゃあ「大人」ってなんだろう。
いくら考えてもピンとこないので先人に学ぶ。
例えば、青森が生んだ文豪、太宰治の著書『津軽』の一文に「大人とは、裏切られた青年の姿である」というものがある。
その文を読んだとき、信じて裏切られて、また信じて裏切られてを繰り返し、そうして誰もまっすぐに信じられなくなった青年の成れの果てを、太宰は寂しさと哀れみを込めて「大人」と呼んだんじゃないかなあ、と何となく思った。
わたしは太宰じゃないから、これらはすべて憶測であり、ひとつの解釈である。
でも、わたしだったら。
「大人とは、裏切られた青年の姿である」
ふと自分のなかに、この一文の自分なりの解釈があることに気付いた。
わたし、あすなろちゃん解釈では以下の通りになる。
「大人とは、裏切られて、だれかの痛みを知った青年の姿である」
裏切られたことのある者にしか、真に裏切られた者の気持ちは分からない。深い悲しみを知っている者にしか、真に深い悲しみは理解できない。
いろんなことを経験して、傷だらけになって、はじめて、ひとの痛みや苦しみに寄り添える。
そう成ったひとを、わたしは敬愛を込めて「大人」と呼びたい。
わたしって「大人」というものをそんなふうに考えていたのか。
内側からぶわわと溢れ出てきた考えをこうして文字に書き起こして、驚く。先人に学ぶことで自分を知ることになるとは。
そう考えると、やっぱりわたしはまだ「大人」に成れていないと言えるだろう。
あーあ、早くわたしの思う「大人」になりたいな。
手始めに明日の朝、母にもう一度「ごめんなさい」と言ってみよう。まずは、それから。
今日の日記
おわり