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自分の「素直さ」で傷つく人に必要なのは、「心の安全地帯」なんじゃないか

「若者は素直が一番!」
「成長する人はかならず素直!」

世の中ではそんなふうに「素直さ」が高値を付けられて売られている。もちろん素直でいたいと思うけれど、わりと素直さって加減が難しいものじゃないだろうか。

他者から与えられる指摘や教えはそりゃありがたいが、誰彼構わず素直に受け取るわけにはいかないし、相手が悪意がある人間であれば利用される結果になりかねない。

そもそも「素直さ」と「言いなり」の違いを見分けられるのは、相手の言葉を信じる責任を、自分で引き受けられる人だけなんじゃないかと思う。

自分で引き受けられるというのは、単にメンタルの強さをいうのではなく、引き受けるだけの判断ができる人。自分の状況を客観的に理解して、素直さを発動するべきか考え、その結果の責任を自分で負う。

そして、負った責任から生じる痛みや傷を自分の力で癒やす能力も持ち合わせている人こそが、本当に素直といえるのではないかと考えるようになった。

このように素直さは生きるうえでの技術であると考えると、素直さが持て囃されるのはある種の人間にとって、ちょっと危険なのではないかと思っている。

ある種の人間というのは、心の奥に安全地帯を持ち合わせない人のこと。あらゆることを生身で受け止めようとするが、自分を癒やすための帰るべき場所がない人だ。

素直という技術の土台には、心の奥の安全地帯が必要だ。誰にも侵されることのない、傷つけられることのない自分だけの世界を持っておくことが、自分と他人との境界線を確かなものにするのに重要な役割を担う。

安全地帯に毛布なんかを敷き詰めて、傷つくことを言われても「でも私はここがあるから」、失敗したとしても「まあ次になんとかするか」とモフモフできるくらいの余白が必要なんだと思う。

しかし、素直さで自らを傷つける人や、人の顔色を伺わないと息苦しくなるタイプの生きづらさを抱えている人は、心の中の安全地帯を上手に育めなかった人が多いように感じる。

本当は毛布を被っているべきところを、いつも生身で外に出ているのだから、傷だらけになって当然だ。

しかも、その傷を癒やす力を持っていないから、どんどん蓄積して痛みばかりを背負うようになる。

つまり、自身の素直さで傷つく人が培うべきなのは、それを乗り越えるさらなる素直さではなく、安全地帯の確保だ。

相手の言うことを丸ごと受け入れるのではなく、「私は私を大事にする」という確固たる意志のフィルターを通して、濾過された大事なエッセンスだけを受け取れるようになるための積み重ねが、自己犠牲ではない素直さを生んでくれるのではないか。

では、その積み重ねは何かと考えると、きっと自分の身体と心の声を聞き続けること。そして、受け取った声から耳を背けず、居心地の良さを培うことだと思う。

人に対して素直になることよりも、自分に対して素直になることが、本来の素直さを手に入れるための第一歩になるんじゃないかと考える今日このごろだ。

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