「人は10代で手に入れられなかったものに一生執着する」なんて、そんなわけないだろ。
最近、空手を習いはじめた。腹が立つことがいくつか続いて、むしゃくしゃしていたので、「強くなりたい!!できれば物理的に!!」と思っていたのだ。
非常に単純な思考回路だけど、何か嫌なことがあったとき、うじうじと悩んでいるよりも自分を変化させるための行動にでるところが自分の好きなところだ(これは自画自賛)。
ちょうどそんなときに、私の尊敬している人が空手の先生もやっていることを知り、「せっかくだから…」と思って体験に行ってみると、想像以上に楽しくて。
トントン拍子に入会を決め、今は週1回のペースで空手教室に通っている。最初は「突き(パンチみたいなやつ)」とか「払い(攻撃をよける技)」とか、基本的な動作から教わる。
先生のお手本を見ながら、鏡の前で稽古するのだけど、稽古中の自分の姿はなんとも情けなくて、思わず笑ってしまう。
先生の突きと私の突きでは、「本当に同じことをしているの?」というくらい洗練度が違っている。やっぱり熟練者はめちゃくちゃかっこいい。
「私もこんなかっこいい動きをできるようになりたい」と思って、自分のダサさに心の中で苦笑いしながら、なんとか先生に習ったとおりに稽古を続けている。
たまに自分がダサいと感じるようなことをするのはとてもいい。なぜなら、そもそも人が何かに一生懸命に取り組んでいる姿は、皆一様にダサいからだ。
必死で余裕がなくて、周囲の目が見えない様子がダサくないわけがないのだけど、別にダサいのは悪いことじゃない。
むしろ、積極的にダサくなりにいけないと、きっと挑戦なんてできないし、その先に成長なんて待っていないんだと思う。
稽古を続けていて、そういえば私は幼いころ格闘技を習いたかったことを思い出した。父が空手や柔道ができて、とても強かったのもあり、私もそんな父のようになりたいと思っていたのだ。
でも、私の家庭は裕福ではなかったので、娘を習い事に通わせるような余裕はなかったのだろう。
「格闘技をやってみたい」と親にねだっても、「うん、いつかね」と言われて、結局始めることはできなかった。
そんなことすっかり忘れていたけれど、今はこうして自分で稼いだお金で空手を習っている。これって、考えてみると結構すごいことなのでは?
よく「人は10代のころに手に入れられなかったものに一生執着する」とか言うけれど、私はこの言葉に対して懐疑的だ。
だって、10代のころなんて自分でお金を稼ぐこともままならなければ、自分を取り巻く世界もものすごく狭いじゃないか。手に入れられないものの量が多すぎる。
そんな状況で手に入れられなかったものに一生執着するなんて、たまったもんじゃない。世の中は人に呪いをかける言葉に溢れている。
でも、もしもこの言葉が本当なのだとしたら、希望となるのは私たちはいずれちゃんと自分のほしいものを、自分の力で手に入れられるようになることだ。手に入れるだけの力を、自分で培えるようになるのだ。
だから、たとえ執着したとしても、その執着はちゃんと解いていける。大丈夫、大丈夫。
執着を解いていくためには、自分の望みをしっかり見定めることが大事な気がする。
誰かに望まされたり、買わされたり、目指すように仕向けられている望みではなくて、自分が本当にほしいものは何か。それを見定めて、望みを一つひとつ叶えていくことが大事なのかも。
きっとそれは私たちがどうでもいいことに囚われないための大事な盾にもなってくれる。
もうすぐ空手の道着が届く。道着に腕を通して稽古をする時間は、きっともっと楽しいだろうな、なんて想像するとなんだかワクワクしてきた。