寝るまえの「1人反省会」をいい加減やめたい。
また、始まってしまった。寝るまえの1人反省会。連日、人と会ってばかりだったからか、息つく間もなく過ごしていたのだけど、その反動で人に会わない夜が突然訪れると、もう耐えられないくらい頭の中で記憶を再生してしまう。
「なんであんなこと言ってしまったんだろう」
「あの行動はキモかったかも」
「てか、声大きかったよね…」
「ウザがられてたら、どうしよう」
そんなふうに考えては、暗い部屋のなか、ベッドの上で1人で悶え苦しんでいる。
誰か重めの灰皿とかで殴ってくれないだろうかといつも願っている。嘘だ。痛いのは嫌だ。
この1人反省会の開催期間は、人と一緒にいた時間に比例する。
1時間程度喋ったくらいであればいいものの、たとえば宿泊なんてしたときには、終わりの始まりである。
2泊3日時間を共にしたら、その日分すべての記憶を逐一掘り返して、反芻しては、めちゃくちゃ後悔する。もうアホの所業だ。自覚してる。
ネットで調べてみたら、こういうのを「反芻思考」というらしい。何度も同じことを思い返しては、反省して止まらなくなる思考のことを指す。ご覧の通り、私はこの反芻思考が強い。
ネットの記事には、反芻思考をする人は「心優しい、気遣いができる」なんて、なんとも親切な解説がなされていたが、私の1人反省会をそんなマシュマロみたいに甘くてフワフワしたフォローで包まないでほしい。
だって、そんな良いものじゃない。自分の言動が他人にどんな影響を及ぼしてるかこんなに考えているなんて、要するに自分が嫌われたくないだけなのだ。
自分を客観視しているようでいて、めちゃくちゃな主観。自分の反芻思考は、もはや自己満足であり自己中心的な考え方なのではないかと思って、そしてこの考えすらまた反芻して、さらに悶える。
そもそも、どうして私は言葉を扱う仕事をしているのに、プライベートで咄嗟に喋るのがこんなに下手なのだろうか。
文面だったら、わりときれいに綴れるはずなのに。言葉を丁寧に選び取って、適切に配置して、我ながら心地よい運びになるのに。
そもそも言葉は扱いが難しすぎる。人間を規定してしまうくらい危険なものなのに、発するのが簡単すぎる。おかしい。完全に設計ミスだ。
そういえば、以前に「言葉に即物性がなくなった世界」という設定の漫画を読んだことがあった。
どんな漫画か詳しくは覚えていないのだけど、とにかく言葉が物体になって、地球上を埋め尽くすようになってしまう。
その結果、人々が1日に発せる言葉の数が規制されるようになるというストーリーだったと思う。
主人公はたしか、そんな貴重な言葉を消費して、意中の相手に「好きだ」と伝えていた。記憶は曖昧だけど、そのシーンがやけに印象に残っている。
私もそのくらいの状況になったら、もっと注意深く話せるようになるだろうか。
完璧に喋ることは難しかったとしても、せめて誰かを傷つけるようなことを言いたくない。
強すぎる言葉も使いたくないし、無責任な言葉を発したくない。
そんなことをいつも願っているのに、どうにも上手くいかずに、後悔と反省を繰り返す日々がいつまで続くのだろうか。
反省してるわりには、軽率に言葉を扱ってしまう私よ。私からのお願いだ。本当に本当に、なんとかしてくれ。お願いします。
なんでもいいから、とにかく安心して寝かせてほしい。
そう思いながら、今日も東京の端っこにある狭いアパートの一室で、誰かに知られることもなく、私は悶えている。
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