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なぜ人を見た目で判断したくないのか。あるいは「見える」ことで見逃す可能性について【Abema出演後に改めて考える】

先日、なぜかAbema Primeに出演することになり、なぜか昨今のルッキズムやら、「人を見た目で判断すること」について話す機会をもらった。

ルッキズムに関して専門でもなんでもない私がなぜ話すことになったのかはよくわからないが、まあそんなもんである。

この動画に対する反響は見ていない。何を言われているかわからないし、コメント欄なんて怖くて見れたものではない。

けれど、放送時には話せなかったというか、あえて話さなかったことがいくつかあるので、今回は自分語りをやってみようと思う。

言い訳をしておくと、私は人を見た目で判断することに対して否定的ではないし、ある程度仕方がないと思っている。だから、ここからは非常に個人的は話をするので、ぜひ流し読みしてもらいたい。

とはいえ、誰に何を言われようと、少なくとも「人を見た目で判断しないほうがいい」という私の思いは変わらない。それは私がこんな体験をしているからだ。


外見コンプレックスから、人を見た目で判断するようになった学生時代

私はもともと外見コンプレックスが異常に強かった。自分の容姿がとにかく嫌いで、「こんな見た目で生まれてきたことが許せない」と思っていた期間が長い。

自分の顔を見られるのが恥ずかしくて、食事のとき以外はずっとマスクをつけていた時期もあれば、太っていると思われるのが嫌で、夏でも長袖を手放せなかった時期もある。鏡を見ては、「どうして私の顔はこんなに変なのか」と泣いたことも何度もある。

なぜ私がそこまで脅迫的に自分の見た目を嫌っていたのかはよくわからないし、詳しく分析する気もないが、いわゆる「醜形恐怖症」に近い状態だったと思う。

年齢を重ねるにつれ、そんな外見コンプレックスとは少しずつ和解できて、マスクも外せるようになったし、夏は普通に半袖を着ている。

しかし、それでも悩みの根は深く、自分の容姿に自信をつけるためにモデル活動を始めたりもした。モデルに関しては始めてよかったと思っているが、しかし特に悩みの解決には繋がらなかった。

さて、ここで正直なことを言うと、私はつい最近まで人を見た目で判断する側にいた。

というか、自分のことも見た目で判断してもらいたかった。可愛いと思われたいし、きれいだと思われたいし、そのために努力もした。見た目で判断されて、得があるならそんなに良いことはないと思っていた。

というか、良いかもわからない中身で判断されるくらいなら、見た目で判断されるほうが楽ではある。だから、人のことも見た目で判断することに特に疑問も感じていなかった。


私の顔が見えない友人に出会って、人の視線に対する恐れに気がついた

そんなとき、たまたま私に目が見えづらい友人ができた。友人は後天性の視覚障害があって、人の顔を視認することはできなかった。

目が見えないのだから、私の見た目は見えないし、友人も自身の見た目をどの程度把握しているかもよくわからない。

最初はそんな状況に戸惑った。見えていないなか、どう振る舞ったらいいかわからなかったのだ。とびきりの化粧をしても、自分が一番美しく見えるワンピースを着ても、ニコニコと笑顔を作っても、その場では何の効果もない。なんだか所在がないといった感じだった。

むしろ、私が無理をして笑っていたりするのがすぐに相手にバレる始末で、さらに戸惑った。

でも、だんだんと気がついたことがある。それはその友人の前でだけは、取り繕わない自分でいられるということだった。

なんだか素直に話せるし、私を長年縛りつけていた「相手によく見られたい」「嫌われなくない」という気持ちが不思議と少しずつ解けていくのを感じて、自分でも驚いた。(友人がめちゃくちゃいい人であるというのも、もちろんある)

そのとき、私は自分の外見にコンプレックスを持っていたというよりも、「見られることの恐怖」に怯えていたのだと気がついた。

人にどう見られるかが怖くて、自分の見た目を過剰にジャッジするようになり、同じ視線を他者にも向けていた。そして、人を見た目で判断することが当たり前になっていたのだ。

さらに、人に見た目を褒められたときもまた、嬉しくもあり、苦しくも感じていた自分の存在も知った。見た目を評価されることに喜ぶ自分の裏には、見た目を評価されなければ価値が保てないのではないかという恐怖があった。

そんな自分の浅はかさもいじらしさも醜さも、物理的に私を見られない友人の前に立ったとき、すべてが浮き彫りになったように感じた。

私は何をしてきたんだろうと思った。これまでの人生、見えていること、見られていることに引っ張られすぎていた。しかし、現代社会においては特に「視線」とはそれほど強烈な力を持っているのかもしれない。

私はこの経験から、人を見た目で判断すること、ひいては人と関わるとき視覚情報ばかりに囚われることの危うさを感じるようになった。


本当に「人の内面は外見に現れる」のか?

少し話が変わるが、見た目の話題になるとき、「人の内面は外見に現れる」といった考え方や言葉をよく聞く。

私はこの言葉が好きではない。なぜなら、外見と内面の関係性がなんだか一方向的に見える言葉だからだ。

人の見た目と内面の関係性はそんな単純なものじゃないのではないか。

例えば、強面に見える人がいたとする。当人は自分の見た目が「怖い」とは思わないが、周囲はその人を怖がり、必要以上に気を使ったり、変に持ち上げたりするような態度を示したらどうだろうか。

全員ではないにせよ、当人も気が付かないうちに横柄な態度を取ったり、「怖い人」と感じられることに慣れて、そのように振る舞うようになることがあるんじゃないか。

強面に限らず、例えば「身長が低い女性は大人しそうに見えるから、加害を受けやすい」とか「太った男性はいじってもいい」とか、見た目で判断し、相手をそのように扱うという風潮はこれほどルッキズムに反対する声が叫ばれる世の中でもまだまだ根強く残っている。

そして、人はしばしば「そう思われているから(あるいはそのように扱われるから)、そう振る舞う」といった性質を持っているのではないかと思う。

心理学の分野でいう、「アフォーダンス」に近いのかもしれない。見た目という環境が個人の精神に影響を及ぼさないとは思えない。

内面が外見に作用するのならば、それは逆も然りだ。内面が外見に作用するという一方通行の関係ではなく、そもそも相互に呼びあっているものなのではないか。

私は「本当の自分」みたいな概念は信じていないので、外見にアフォードされてできた内面を一概に嘘だとは思わない。

しかし、少なくとも私たちが他者を外見で判断することで、その人の内面に影響を与える可能性があることは考慮しなければならないと思うのだ。


(ここは余談)

ちなみに、見た目で人を判断することに反対意見を持つ私が、なぜモデルをやっているかについては、面倒なので言及しない。あまり重要ではないからだ。気になる方は個人的に聞いてほしい。

また、ルッキズムの問題は社会全体に蔓延する疫病のようなものなので、個人の傷についての語りに終始してもあまり意味がない気もする。

資本主義の氾濫によって、人々の欲望が過剰に掻き立てられている状況や、選ぶのではなく、選ばされてしまう状況についてはもう果てしないので私の脳みそではまったく考えられない。

また、個々人が個々人の理想を叶えるために、美の追求をするのは素晴らしい。美しくなりたいことは悪じゃない。私だって美しくありたいし、そういう自分が好きである。

しかし、その「美の基準」は誰が作り上げたものなのか、自分が本当に欲しかったものは何なのかは、注意深く見つめる必要があるのだと思う。


人を見た目で判断することで、受け取れるはずだったものを見逃す可能性について

(閑話休題。ここからが結論。)

私がこれまで出会ったことがある人に対して、外見で判断せずに接することができていたら、もしかすると相手はもっと伸び伸びと振る舞うことができたのかもしれない。見られなかった一面が見られたかもしれない。

私自身もまた自分の外見に囚われずに相手とともにあることができたなら、きっと接し方が変わっていただろう。

そんな可能性を私自身が切り捨ててきたのかもしれないと思うと無性にさみしい。

あるいは、世の中の誰もが人を見た目で判断しない状況になったら、人々はどう変化するのだろうかと想像してしまう。

それは綺麗事で理想論なのかもしれないが、想像するだけ自由だし、自分がそういう世界に身を置く練習を草の根的にやるには別に勝手だろう。

人は本能的に他者を見た目で判断してしまう部分がある。それは認めるし、止められるものではない。

けれど、もしもそんな「本能」が、私とあなたの関係性の可能性をせき止める原因として横たわっていたのだとしたら。もっといえば、あなた自身の可能性をあなた自身が気が付かない理由になっていたのだとしたら。

そういう想像力を持つことが、自己や他者の傷をケアするときも、ルッキズムのように大きな問題について考えるときも、重要なのではないかと考えた。

そもそも、自分の言動や行動が他者のあり方を揺るがすかもしれないという意識自体が傲慢なのかもしれない。でも、やっぱり恐ろしいし、そういう恐れを失いたくはない。

結論とか言ったけど、あまりまとまらなくて悔しい。そんな感じである。

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目次ほたる/Metsugi Hotaru
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