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『巨人の肩』(続々)シャルトルのベルナールは誰の肩の上に?

中世的人間は上述のように論理学的人間であり神学的人間であったが、さらにhomo grammaticus(文法的人間)でもあった。これは中世の大学では若者たちに論理学より前に文法しかもラテン語文法が教えられたことからくる当然の結果である。

中世思想原典集成19総序

■六世紀の文法家プリスキアヌス

ロバート・マートンは、「巨人の肩」の格言の起源を十二世紀のシャルトルのベルナールに求めました。しかし、「巨人の肩」の喩えはシャルトルのベルナールのオリジナルであっても、類似する表現や思想はもっと昔からあってもおかしくないし、むしろ「巨人の肩」の精神に則れば、この格言もまた先人の肩の上に乗って生まれたものと考えるべきではないでしょうか?

もちろんマートンもそう思ったようで、この問題を追求しています。で、結論 (といっても、ものごとの性質上、現時点で信憑性の高い説と言うしかないわけですが)、ベルナールがその肩に乗ったのは、六世紀のラテン語文法家、プリスキアヌス (L Priscianus Caesariensis) だったようです。

プリスキアヌスがなんと言ったかというと、

    grammatica ars,...cuinus auctores, quanto sunt iuniores,
    tant perspicaciores, et ingeniis floruisse et diligentia
    valuisse onmium iudicio confirmatur eruditissimorum...
          (INSTITIONES GRAMMATICAE 「文法学網要」)


quanto sunt iuniores, tant perspicaciores の部分が問題の箇所なんですが、「より若い(最近の)者は、 より明敏である(目が利く)」という感じになります。これは、いわゆる「巨人=矮人」 の元として理解しやすいフレーズではありますが、しかしシャルトルのベルナールもまた、プリスキアヌス自身の意図を微妙に読み替えているようです。(話が長くなるので、具体的な内容は省略します。)

問題は、シャルトルのベルナールがプリスキアヌスを知っていたと言えるのか、 という点ですが、これはもう間違いなく知っていたと考えてよいようです。 プリスキアヌスの著作は1255年までパリ大学のカリキュラムに使われていたことがはっきりしており、それより百年前のベルナールの時代にも、プリスキアヌスは、 マルティアヌス・カペッラ、ボエティウス、イシドルス、ビードなどとともに 必読文献であったようです。

ほかにも傍証はあるのですが、ここでは、 ベルナールがこの表現を産む一つの刺激となったのは、かなりの信憑性をもって、 六世紀のプリスキアヌスであったようだ、と述べるに留めておきます。

この記事のトップに掲げる画像は、平凡社の上智大学中世思想研究所編・訳『中世思想原典集成』19「中世末期の言語・自然哲学」の裏表紙です。

ダキアのボエティウスによるプリスキアヌス大文法学問題集が収録されています。(と同時に、ニコル・オレームが入っているのも、自然哲学的には感慨深いですね。)

中世の大学では、神学、法学、医学のどれを学ぶにせよ、まず自由七科を学ばなければならず、その自由学芸部の中核をなすのがアリストテレスの論理学だったわけですが、さらにその論理学学習の前に来るのが文法学だった。その中世文法学の完成者が六世紀のプリスキアヌスだったのです。


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