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翻訳の仕事を通して見た、ここ半世紀の生物学・人類学の動向

 
次に、生物学と人類学の動向についてお話ししたいと思います。この領域でこの半世紀間に起こったことは、われわれが他の生物に向ける目線に、修正を迫るものでした。そして、他の生物を見る目が変われば、われわれが自分たち自身を見る目も変わらざるをえないようです。
 
その結果として、われわれの自意識も変わり、次のような問いが、過去のいつにもましてシビアなものとして浮かび上がってきたように思うのです。
「われわれ人間は、本当にそれほど特別なのだろうか?」
「われわれは自分たちのことを、どれだけわかっているのだろうか?」
 
「われわれは特別だ」という人間の自意識を象徴しているのが、ここに示した図でしょう。私と同年輩の方なら、小学校の教科書で、このような図を見たことがあるのではないでしょうか? この図は、人類を進化の頂点として描き出しています。一番右側が、われわれホモ・サピエンス。そのひとつ前ぐらいが、ネアンデルタール人でしょうか? 


直線的な人類の進化?

 
キリスト教は進化論を認めないのかもしれませんが、この図が示すホモ・サピエンス像と、「神はご自分の姿に似せて人間を作られた」という聖書の人間像とは、どこか重なるものがあるように思うのです。どちらも、われわれは特別に優れている、というメッセージを発しています。
 
しかし、近年遺伝学が大きく進展し、何万年も前の生物の骨からサンプルを取り出して、ゲノムワイドな研究ができるようになりました。それにより、人類の進化のイメージも大きく変わりつつあります。 


われわれはネアンデルタール人
(やその他のホモ属の仲間)と交配した!

 
 
たとえば、われわれの祖先は、ネアンデルタール人など、他のホモ属の仲間たちと交配したことがわかってきました。われわれはネアンデルタール人のDNAを受け継いでいるんですね。これまでに検出されたネアンデルタール人由来のDNAの最大比率は2%です。その2%に対し、世界各地の人たちが、どれくらいネアンデルタール人のDNAを受け継いでいるかを示したのがこの図です。右側の図は、デニソワ人の場合です。こんな精度で古人類のゲノムがほんとうに調べられるなんて、二十世紀に末でさえ、たいがいの人は夢にも思わなかったでしょう。
 
こうして、人類の進化は一段ずつ階段を上るようなものではなく、地球上には同時期にいろいろなホモ属が広がっていたことがわかってきました。では、なぜ、ホモ・サピエンスだけが生き残ったのでしょうか? かつては、ホモ・サピエンスがネアンデルタール人と戦って勝利を重ねた結果、彼らを絶滅に追いやったのではないか、というような推測もありました。しかし近年の研究から、「戦って勝った」とか「殺した」といった、いかにもわれわれが考えそうな単純で話ではないらしいことがわかってきました。
 
ネアンデルタール人が絶滅した理由のひとつとして近年話題になっているのが、遺伝的多様性を確保できなかったから、というものです。集団が小さいと近親交配を重ねざるをえず、遺伝的多様性を確保することができず、絶滅路線をたどってしまうというのです。ネアンデルタール人の集団は、一貫して、あまり大きくなかったようです。地球上に存在していた期間中、彼らは絶滅ギリギリだったとも言われます。生き物の集団というのは、こういうことでも絶滅してしまうものなのですね。
 
ともあれ、どうやらわれわれホモ・サピエンスは、何かの点で「特別だ」というよりも、絡み合ったさまざまな要因において、彼らとは「違っていた」ということなのかもしれません。 


シンガー『動物の解放』から半世紀


 
さて、ホモ属以外の動物に向ける目線も、われわれ自身にシビアに跳ね返ってきているように思います。  
 
動物への虐待はよくないという考えは、実は、奴隷解放の頃からあったようです。黒人奴隷は人間以下の動物だということにされていましたが、その見直しがなされるとともに、動物への向き合い方も見直されたのです。とはいえ、当時はまだ、動物虐待への批判が大きな影響力を持つことはありませんでした。
 
転回点となったのは、1975年、今から半世紀前に出た、ピーター・シンガーという哲学者の『動物の解放』だ、というのは、多くの人の意見が一致する点でしょう。シンガーは、種差別(スピーシージズム)という考え方を提唱して、動物への差別を批判しました。人種差別(レイシズム)は、優れた人種と劣った人種があるという決めつけにもとづく差別です。性差別(セクシズム)は、劣った性と優れた性があるという決めつけにもとづく差別です。それと同じく、スピーシージズムは、動物種のなかには劣ったものと優れたものがあるという決めつけもとづく差別、ということになります。
 
シンガーの主張の根幹は、「苦しみを与えてはならない」ということです。そのため、苦しみを感じることのできる動物種、感覚、知覚を持つ動物ほど大事にされることになります。逆に言うと、痛みを感じなければ、殺そうが食べようが問題にならない。そのため、ホタテ貝とムール貝では、ホタテ貝のほうが痛みを感じる能力が発達しているとか、していないとかいう話にもなりますし、「人間だからこその尊厳」という考え方も通用しにくくなります。「どのひとりの人の命も、地球より重い」などとは言いにくいですね。シンガーは、人間を特別扱いはしないからです。 
 
ピーター・シンガーの影響力は大きく、彼の本を読んで菜食主義者になったという人もたくさんいます。その一方で、シンガーはかなり極端なことも言うので、反論もあったし、論争もありました。しかしともかく、シンガーの『動物の解放』以来野半世紀間に、動物への向き合い方はだいぶ変わったといえます。今日では、「動物の権利」などと言っても笑われることはなくなりましたし、「動物倫理」という学問分野も生まれました。2020年には動物愛護保護法が改訂、罰則が強化されました。食肉工場の実態を問題視する人も増えています。ちなみに、動物愛護保護法は、愛護動物だけに適用されるもので、食べるために飼育されている動物には適用されません。
 
さて、21世紀の今日、動物への向き合い方を論じる哲学者の中で、もっとも有力な論者のひとりは、マーサ・ヌスバウムでしょう。ヌスバウムの主張の中核にあるのが、「ケイパビリティー」という考えです。これは、もともと経済学の考え方で、人間が適切な環境の中で発揮しうる能力が、現実にどのぐらい達成されているか、ということを考えます。途上国や内戦地帯などで、ろくに教育も受けられず、児童労働させられているような場合、その人はケイパビリティーを発揮できていないと考えるわけです。
 
経済学者のアマルティア・センは、この考え方を発展させてノーベル経済学賞を受賞しています。マーサ・ヌスバウムは、センと一緒にケイパビリティーの考え方を発展させた人ですが(まあ、ノーベル哲学賞というものはないですが)、彼女はこの考えを、人間だけでなく、動物一般に当てはめます。動物たちが適切な環境の中で発揮できる能力を、現実にどれだけ発揮できているか、ということを大切にするわけです。そうなると、シンガーの場合のように、痛みを感じるための知覚を持つかどうかというものさしを当てはめるのは的外れで、地球上の動物はどれもみな、かけがえのない驚くべき存在であり、その動物種に特有のケイパビリティーを発揮できるように配慮すべきである、ということになります。たとえば、「イルカはかわいくて賢いから大切にしよう」、みたいな話にはなりません。人間の目から見て、かわいいとか、頭がいいとか、そういう問題ではないからです。
 
今日、動物虐待という観点からだけでなく、地球環境の観点から言っても、われわれが動物に与える「苦しみ」や、動物が痛みを感じるかどうかということではなく、生き物全般のケイパビリティーを考えるヌスバウムの意見には、重要なものが含まれているように私には思われます。しかし、じゃあどうするか、ということになると、これがなかなか難しい。というのも、動物への虐待は、私たちの社会システムに深く組み込まれていて、身動きが取れなくなっているからです。
 
たとえば、豚だけでも、日本で一千万頭ほど飼育されています。一千万頭ですよ。一方、野生動物は、この五十年間で、頭数にして70パーセント以上も減少したといわれます。人間はこの半世紀で2.4倍ほどに増え、その人間が食べたり、愛玩したりする動物ばかりがあふれかえっています。実はこの状況は、地球環境という観点からは自殺行為なのですが、じゃあ、どうすればいいのか? 何ができるのか?
 
このように、動物たちへの向き合い方は、さまざまなレベルで、われわれ人間のありかたに大きな問いを突きつけています。 
 

 

植物観は激動の時代に….


植物への向き合い方も、この半世紀間で大きく変化しました。1970年代から80年代頃には、「植物同士がコミュニケーションを取り合っている」というような論文を書いて、研究者生命を絶たれるということも実際にありました。それがトラウマのようになって、植物の主体的な行動を研究することは、研究者のあいだで一種のタブーのようになっていたのでした。しかし、21世紀もだいぶ進んだ今、もはや植物の行動に目をつぶることはできない、という状況になっているようです。
 
たとえば、アケビの仲間のつる性植物には、周囲の植物の葉っぱに擬態するものがあります。しかも、作り物の葉っぱにさえ、擬態するというのです。これはもう、植物にも視覚があるのではないか、と言ってみたくなります。われわれの視覚とはメカニズムが違うでしょうが、周囲を観察しているのですから。  
 
また、シロイヌナズナという植物は、ブンブンという蜂の羽音を聞かせると、より甘い蜜を作ることがわかっています。われわれの聴覚とはメカニズムが違うけれど、この植物はたしかに音を聞いている、と言ってみたくなります。 
 
そのほかにも、植物は土壌の中でコミュニケーションを取り合うだけでなく、空気中に化学物質を飛ばしてコミュニケーションを取り合う場合があることもわかってきました。たとえば、害虫にたかられている木が、これはもう枯れるしかないのかな、と思いきや、その害虫を殺す物質を作りはじめ、最終的には害虫のほうが死に絶える、ということがあるそうです。しかもその木は、空気中に情報を送り出し、まだ害虫にたかられていない仲間が、その情報をキャッチして、害虫を殺す物質を作りはじめるというのです。
 
さらにいうと、ひとつの植物体の内部で、われわれも使っているようなアミノ酸を利用して電気的信号を送っていることもわかってきました。情報を送り出し、受け取り、保存し、処理し、利用して、行動を起こす。そういうことができる植物は、インテリジェントだと言っていいのでは? という問いが生まれているのです。
 
しかし、学会のコンセンサスは慎重で、「プラント・インテリジェンスなどというものはない。情報処理能力と、それにもとづいて行動を変化させる能力があるだけだ」ということになっているようです。
 
ここで少し補足すると、植物学者のコミュニティーが慎重なのも、無理はないのです。植物の行動やコミュニケーションというジャンルは、ファンタジーと紙一重なところがあり、再現性のない研究や、とんでもない言説が飛び出してきた歴史があるからです。植物が音を聞いているという件でも、かつて、「モーツァルトの音楽を聞かせると生長が早い」といった話があったのを、ご記憶の方もいるかもしれません。この分野は、まっとうなサイエンスを進めていくという意味では、地雷原なのです。そんなわけで、プラント・インテリジェンスを認めないからといって、植物学者のコミュニティーは頭が固い、というわけでは必ずしもないんだと思います。
 
ここ半世紀の植物への向き合い方の変化をまとめておきましょう。
 


次に、AIを取り上げます。AIはもちろん生物ではありません。少なくとも、DNAにもとづく生物ではありませんが、人類学に重なるテーマではあると思うからです。
 


ほんの10年ほど前までは、「AIはけっして人間を越えられない」という意見がよくありました。今はトーンが変り、超える、超えないではなく、むしろ「人間との違い」が論点になっているようにみえます。AIには、人間を真に感動させることはできないとか、真の芸術は生み出せない、といった具合です。しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? そんなことが、なぜ言えるのでしょうか?  
  
近年のAIの発展にとって転回点となったのは、2017年のトランスフォーマー・ショックだと思います。たとえば、チャットGPTの最後のTは、トランスフォーマーのTです。
 
さてその2017年のことですが、Google社に「ブレイン・パック」という、8人のメンバーからなるチームがありました。この人たちは現在、全員がGoogleをやめて、それぞれに会社起こすなど様々な分野で活躍しています。そのブレインパックの人たちが、生まればかりの「トランスフォーマー・アシスト・システム」に、ひとつの課題を与えました。2日ほどかけてwikipediaの全エントリのうち約半分ほどを読み込ませたうえで、「トランスフォーマー」というタイトルで、wiki用の記事を5本、でっちあげなさいという指示を与えたのです。そうしてでっちあげられた記事を見て、チームのメンバーは唖然としたそうです。20年か、25年後ぐらいには、これぐらいのことができるAIが存在しているだろう、と思っていたことが、今、目の前で成し遂げられてしまった、と感じたそうです。 
 
感じを摑むために、そのでっち上げ記事のひとつをちょっとご紹介すると、


  トランスフォーマーとは、1968年に結成された日本のハードコアパンクバンドで、2006年に分裂解散し、残ったメンバーは「スターミラー」という名前の新たなバンドを結成して、今に続いている。
 


まったくの作り話なのですが、細部が非常にもっともらしい。いったいこのAIシステムは、「何を書き、何を書かないか」を、どうやって判断したのだろうか? もともとトランスフォーマーは機械翻訳のために開発されたニューラルネットワークだったのに、なぜこれだけ想像力に富んだ文章が書けてしまうのか? わからないことだらけでした。
 
ちなみに、トランスフォーマーという名前にはとくに意味はないそうです。単にちょっとかっこよいと思ったから、と命名者は語っています。
 
こうして、トランスフォーマーを組み込んだニューラルネットワークは誕生直後から謎めいた優秀さを示したのでしたが、その後スケールアップするたびに、あまりにも順調に性能が上がっていった。なぜ、そうなるのか、何が起こっているのか、開発したチームの人たちさえ、いまだによくわからないようです。
 
ひとつはっきりしているのは、トランスフォーマーのアーキテクチャは、われわれの脳のそれとは、まるでちがうということです。でも、われわれと同じしくみである必要はあるのでしょうか? むしろ、われわれに似せたりすれば、われわれが抱えている限界までも、AIに課してしまうのではないでしょうか? 
 
さらに言うなら、われわれはそもそも、「知能(インテリジェンス)」とか「意識(コンシャスネス)」という言葉を、わかって使っているのでしょうか? 知能のあるなし、意識のあるなし、といった問題は、実は、深入りするとよくわからなくなる泥沼のようなテーマです。いろいろな人たちの議論をちょっと注意深く調べてみると、こうした言葉の定義は、人によって微妙に違います。われわれが知能と言うとき、それは何を指しているのか、実はよくわからないんですね。 
 
 
ともあれ、トランスフォーマーにもとづくニューラル・ネットワークは、歩き出してまだ数年の赤ん坊です。しかも、このシステムは、ほぼ間違いなく、この種のAIの第一世代すぎないでしょう。この先どうなっていくかは、ちょっと想像もつきません。AIは今後、社会的にも経済的にも、かつて人類が経験したことのないような大きな問題をわれわれを突きつけてくることでしょう。そしてそれだけでなく、「われわれ人間は何者なのか」という点でも、深くて重い問いを突きつけてくるに違いありません。
 

ここで、生物学・人類学が投げかける問いについてまとめておきましょう。


 
これらの問いに対して、今、NO! という声が上がっているように思うのです。

そして一番最後に、「数学・物理学」「遺伝学」「生物学・人類学」の動向を、まとめておきたいと思います。


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