ウォルター・アイザックソン著『コード・ブレーカー』を読む



ウォルター・アイザックソンが、クリスパー・キャス9のジェニファー・ダウドナを主人公に据えて、『コード・ブレーカー』(原題はThe Code Breaker) という新作を出したと聞いて、わたしは「ん?」と思った。アイザックソンがこれまで評伝の対象としたのは、アインシュタイン、スティーブ・ジョブズ、レオナルド・ダ・ヴィンチなど、誰がどう見ても文句なしに突出した人たちで、そういう「天才」の創造の秘密に迫る、というねらいも納得がいく。

しかし、ダウドナというのはどうなんだろう? というのは、もしも本のタイトルが彼女を指しているのなら、「定冠詞(The ) +単数名詞(Code Breaker)」は、one and only のニュアンスを含まずにはすまないからだ。たしかにダウドナはノーベル賞を受賞したが、それだってエマニュエル・シャルパンティエとの共同受賞だ。さらに言えば、ノーベル賞を受賞した科学者はたくさんいるし、受賞してもおかしくない仕事をした科学者はその何倍もいる。ましてや、このcode が遺伝暗号を意味しているなら、one and only の暗号解読者(codebreaker)を特定できるとはわたしは思わないし、それがダウドナだというのはまったくもって論外だ。アイザックソンは、いったい何を考えているのだろう? 

そんな疑問を頭の片隅に置いて本書を読みはじめるとまもなく、The Code Breakerはダウドナを指しているわけではないことは、なんとなくわかってきた。本書には優れた科学者がたくさん登場して、ときに密接な協力関係を結び、ときに熾烈な競争を繰り広げる。そこに描かれるのは、集団の営為としての生命科学研究だ。ダイナミックなその動きは、あたかも何千、何万というムクドリの大集団が空を舞ったり、イワシの魚群が海を動きまわるありさまのようでもある。

本書に登場する科学者たちは、それぞれに生い立ちも違えば、情熱の向かう先も違う。科学者たちの中には、アイザックソンがシェイクスピアの『真夏の夜の夢』の妖精パックになぞらえるバイオハッカー、ジョサイア・ザイナーもいれば、遺伝子編集を施した赤ん坊を誕生させてヒーローになるつもりが、今は中国の監獄にいる「ならず者」科学者、フー・ジェンクイもいる。科学者たちの集団は、ムクドリやイワシの大群などよりも、はるかに制御不能なのかもしれない。この集団の動きを押さえ込んだり、動きを禁じたりすることは、そもそも可能なのだろうか?

もちろん、その事情はなにも生命科学分野に限ったことではなく、集団的な営みなのはどの分野も同じことだ。それでも、今日、生命科学がとりわけ注目されるのは、この分野で進展していることが、人間の未来に重大な影響を及ぼしうるからだ。

本書の下巻では、アイザックソンは、遺伝暗号を書き換えるゲノム編集技術にまつわる倫理的な問題に重心を移していく。とくに、ずばり「モラルの問題」と題された第七部では、マイケル・サンデルさながらに思考実験も繰り出しながら、倫理的問題を考えるために抑えておかなければならない論点をあぶりだす。いずれの論点にも、簡単な答えがあるわけではない。しかしそうであればこそ、われわれには準備が必要だ。この第七部は、とくにじっくり読むことをお薦めしたい。

遺伝コードの編集について考えるために抑えて置くべき論点は多いが、とくに重要なものをひとつ挙げるなら、それは「くじ(lot/lottery)」という考え方だろう。「くじ」は、ジョン・ロールズ『正義論』のコアといっていい概念であり、マイケル・サンデルも重い扱いをしている。この世に生まれてくるとき、われわれは否応なくいくつものくじを引かされる。どんな時代に生まれるか、どんな国に生まれるか、親は金持ちか貧しいか。そして、どんな遺伝子を持って生まれるか。くじの結果は人生に重大な影響を及ぼし、それはときに深刻な社会的不平等にもつながる。否応なく引かされたくじの結果を、「自己責任」と言ってしまっていいのだろうか? 親の経済力が社会格差に直結するような社会は、公正な社会と言えるだろうか? 多くの人は、くじの結果が深刻な格差や不平等に直結する社会は、フェアな社会ではないと考えるだろう。

従来、おおむね「くじ」の結果と受け止められていた遺伝コードを、金さえ払えば書き変えられるようになれば、公正な社会についての考え方の基盤にも深甚な影響が及ぶだろう。裕福な親が好ましい遺伝子を子どもに買い与える世界は、まさしく映画『ガタカ』の世界であり、新たなる優生学に覆われた世界だ。二十世紀の歴史に暗い影を落とした優生思想は、国家主導型と言ってよいものだった。アイザックソンは、そのタイプの優生学は、おいそれとは復活しないだろうという。むしろ、すぐにも広がりそうなのは、いわゆる「リバタリアン優生学」だ。金持ちが、望ましい遺伝子を子どもに買い与えて何が悪いのか、という言い分である。アイザックソンは、ゲノム編集が自由市場の一部となり、富裕層がそこで遺伝子を買い、自分の家系に根づかせることを強く批判する。(また、個人レベルで好ましいと思われる遺伝子を根づかせた結果、人類の遺伝的多様性が失われかねないという、別の論点もある。)

それ以外にも考えるべき問題は多く、誰しも頭を抱えてしまうだろう。そんなときに決まって出てくるのが、その新しいテクノロジー(今の場合であれば、ゲノム編集技術)を使うことは「神を演じることだ」とか、その技術は「不自然」だから使ってはならないという論法だ。アイザックソンは、そういう論法に対して明確に否定的で、わたしもまったく同感だ。「神の領域」のような論法を持ち出す人はたいがい無神論者だし、「これは不自然だからダメ、あれは自然だからOK」という線引きをする人は、自然のことをあまり知らない場合が多い。この手の論法は、根拠のあやふやな主張に感情的なアピール力を持たせるためのレトリックにすぎない。そもそも、「神の領域」を定める境界線も、「自然/不自然」の線引きも、時代とともに大きく変化してきた。近代科学が始まる以前の人たち、それどころか数十年前の人たちにとってさえ、今日のテクノロジーはまるで奇跡や魔術のように見えるだろう、というのはよく指摘されることだ。スマホいじりながら「神の領域」だの「自然/不自然」だのと言う人を、わたしは信用する気になれないのである(もちろん、そう言いたくなる気持ちはよくわかるが)。

この点に関連してアイザックソンが繰り返し指摘するのは、細菌は何十億年も前に、すでにクリスパー・システムを発明していたということだ。人間はごく最近になって、それを発見したにすぎない。とすれば、ゲノム編集は神の領域だとか、不自然だというのは、どういう意味だろうか? むしろ、神や自然/不自然を持ち出す論法は、問題を見る目を曇らせる。本当の問題は、別のところにあるからだ。

(少し議論の路線がはずれるので補足的に書いておくが、もうひとつ、アイザックソンが繰り返し力説するのが、基礎科学の重要性、そして公開の重要性だ。「神の領域」であれ「自然/不自然」であれ、その他どんな論法に立脚させるにせよ、基礎研究を停止させてしまうことの深刻な余波をアイザックソンは懸念する。モラトリアムは、そこからの脱出方法を見えなくさせる悪手であり、全面禁止は、そもそも有効性が疑わしいとアイザックソンは考えるのである。)

では、ゲノム編集技術を野放しにしていいのだろうか? この問いに対するアイザックソンの答えは、きっぱりとした「ノー」だ。当然だろう。野放しにしていいわけがない。でも、どうすれば? 実は、ゲノム編集に限らず、世の中に野放しにしてはならないことはたくさんある、とアイザックソンは指摘する。望ましい社会を実現させるために、そして社会を機能させるために、われわれは野放しにできないことに対しては制限を課す。そういう制限は、例外をただのひとつも許さない完全なものである必要はないし、100パーセントの禁止は現実的でもない。むしろ大切なのは、われわれはこの社会をどんな社会にしたいのかを考え、社会規範を明確にすることなのだ、とアイザックソンは言う。

生ぬるいと思うだろうか? しかし、よくよく考えてみれば、結局、それしかないのかもしれない。「どんな社会にしたいのか?」を考え、さまざまな意見があるなかで合意点を模索し、望ましい社会を実現するために手を尽くす。それがどんなにまどろっこしくても、骨が折れても、紆余曲折があっても、神や独裁者にこの仕事を丸投げするわけにはいかないのだから。

さて、いよいよ本書も終盤になって、アイザックソンがThe Code Breakerというタイトルに込めた意味が明らかになる。The Code Breaker は、われわれ人類だったのだ。

何億年にもわたって、生物が「自然に」進化してきた末に、人類は、生命の暗号をハックし、自らの遺伝子の未来を設計する能力を得た。ゲノム編集を「不自然」だとか「神を演じる」ことだとか決めつける人たちに考え直してもらうために、こう言い換えてみよう。自然と自然の神はその無限の叡智によって、自らのゲノムを修正できる種を進化させた。その種が、たまたまわれわれ人間なのだ」。

われわれの眼前には、重要な課題が山と積まれている。しかしそれと同時に、新たに開かれる希望も大きい。本稿ではゲノム編集の倫理的問題にフォーカスしたが、この技術によって切り開かれる可能性については、ぜひ本文を読んでいただきたい。

こうして、生命科学革命の現場を訪ね歩くアイザックソンの旅はいったん終わりを迎えた。一読者として旅をともにした私は、本書を読み終えた今、ジェニファー・ダウドナは、この旅の最高の案内人だったと断言することができる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?