マン島の不思議(2):三本脚(トレカシン)
■マン島のシンボル、トレカシンとは?
マン島行きの飛行機に乗ってから、SeaCatという船(「海の猫」! これまた猫ちなみ!)でダグラスを発ってリバプールに着くまで、とにかくマン島にかかわっているかぎりたえず目にしたのが、マン島のシンボル、「三本脚(あし)」(マン島語で tre cassyn:トレカシン)です。
その名の通り「三本の脚」なのですが、一度目にしたら忘れない不思議な形をしています。三本の脚が、平面上で互いに百二十度の角度をなすように突き出ているのです。この記事のトップに掲げたのは、たまたま手持ちのマン島の紙幣に描かれていたトレカシンです。
わたしがこの不思議な図像にはじめて出会ったのは、数学に関する本を訳していたときのことでした。その本に、三回回転対称性「しか」もたない図形の例として挙げられていたのです。三回回転対称性とは、図形の中心のまわりに120度ずつ回転させると、そのつど、もとの図形と完全に重なる性質のことです。それに対し、たとえばシンプルな正三角形なら、三角形の各頂点と、それに相対する底辺の中点とを結んだ軸に関する、鏡映対称性もあります。トレカシンに鏡映対称性はありません。
また、マン島のトレカシンのまわりには、ラテン語で不思議な言葉が書かれています。
QUOCUNQUE JECERIS STABIT
文法的には、
QUOCUNQUE: 副詞 to whatever place
JECERIS:jaceo(投げる)の能動相未来完了二人称
STABIT:sto(立つ)の能動相未来三人称
つまり、「(あなたが)どこに投げようとも、(それは)立つ」ということになります。ざっくり簡単化すれば、「どこに投げられても立つ」。これがマン島のモットーなのです。このモットーは古くから、トレカシンと結びついていたのだそう。
では、トレカシンそのものは、それぐらい古いのでしょう? トレカシンは、いつごろ、どんな経緯で、マン島のシンボルになったのでしょうか? これに関して、まず押さえておきたいポイントをふたつ述べます。
▲1 三回回転対称性「しか」もたない図形の歴史は古く、起源は小アジアとも言われ、サンスクリットの文献や、北アメリカ先住民ホピ族の文化や、ケルト文化にも見られます。
とくに、ケルト文化では次のようなパターンが多用されるため、ケルト文化とマン島のトレカシンとの関係を推測する議論は多いのですが、多少ともきちんとした証拠をつかむのは難しいようです。
▲2 シシリー島のシンボルであるトリナクリアは、マン島のトレカシンとよく似ていますが、中心にゴルゴンの首があるため、三回回転対称性はありません。これがシシリー島のシンボルになったのは紀元「前」六世紀頃のことで、かなり古い。当時シシリー島はギリシャの支配下にあり、ギリシャ語で「三つの岬」を意味するトリナクリアの名で呼ばれていました。つまり、このシンボルを指すトリナクリアという言葉は、島そのものの名前に由来するんです。
あとの話にも関係するので、シシリー島の場所を確認しておきましょう。シシリー島というと、「マフィア」や、イタリア南部の貧しい土地といったイメージを持ってしまいがちではないでしょうか。しかし、実のところシシリー島は、イタリアの先っぽというよりはむしろ、地中海のど真ん中に位置する大きな島なのです(四国の1.4倍ほどもある)。古くはギリシャがさかんに植民していました。アルキメデスもこの島の出身ですね。ピンダロスは『祝勝歌』のなかで、芸術全般のパトロンにして、オリュンピア祭の戦車競技の勝利者でもあるシケリア(シシリー)の僭主ヒエロンを華々しく讃えています(ヒエロン本人が戦車競技に出場したわけではなく、持ち馬が勝利したのです。)。当時、シケリアは地中海交易のセンターとして栄えていました。
■マン島のトレカシンと、シシリー島のトリナクリアとの接点
さて、マン島にトレカシンがはじめて現れたのは13世紀と、だいぶ遅い。そのとき何があったのでしょうか? とはいえ、マン島の歴史にはさまざまな国の事情にからむ複雑な経緯があり、カバーするのはとても大変です。そもそもマン島は、今も正式にはイギリスじゃないんですよね。主権国家でもないため、イギリスの連合王国にも参加せず、自治権のある地域ってことになっています。そんなこんなで、ここではマン島の歴史にはあまり深入りせず、トレカシンとトリナクリアをつなぐ接点として、もっとも有力そうな説を、ごく簡単に紹介したいと思います。
というのが、マン島のトレカシンとシシリー島のトリクナリアをつなぐ接点として、最有力とみられる説です。簡単にまとめましたが、1254年にイングランドで催されたエドマンドのシチリア王就任の祝典の背景には、ヨーロッパの激動の歴史があったんですよねぇ….(しみじみ)。マン島もシシリー島も、歴史の荒波に揉まれましたね。「どこに投げられても立つ」というマン島のモットーが重く響きます。あたかも、「領有権が誰のものになろうと、マン島はマン島さ」、と言っているかのように。
というわけで、トレカシンがマン島のシンボルになった経緯については、確かな資料が残っているわけではありません。トレカシンとトリナクリアとの関係に関する上記の説も、有力ではあっても、絶対確実とはいえません。しかし、その不確実性まで含めて、なかなか感慨深い話だと思うのです。
■三本脚シンボルの歴史:アキレウスとの関係
ところで、その後たまたま古代ギリシャの壺に関する本を読んでいたとき、わたし、見つけちゃったんですよね。三本脚のシンボルを。それは豪華な壺に描かれた絵の中にありました。
現在ボストン美術館にあるその壺は、紀元前六世紀ごろのもの。それまで地中海の文化圏で普及していた「コリント式」と呼ばれる壺には、単純な幾何学模様が描かれていました。しかし、紀元前六世紀になって、アッティカ地方(アテナイあたりですね)の壺製作者グループが、ホメロスなどの物語のシーンを描くようになった。それが大人気を博して、地中海地域に広く輸出されるようになったのだそう。わたしが見たのは、その黒絵式の絵が描かれた壺のひとつで、かなり高価そうでした。
ボストン美術館の、該当するページをリンクしておきますね。ダブルクリックして、豪華な壺と美しい絵をぜひご覧ください。
この壺に描かれているのは、『イーリアス』の中で、アキレウスがヘクトルの死体を戦車にくくりつけて引きずりまわす凄惨なシーンで、『イーリアス』のひとつのハイライトです。そのアキレウスの盾に、なんと、トリスケリオン(マン島でいうトレカシン)が描かれていたのです!
重要なところだけ、ささっとスケッチしてみました(笑)
で、この壺を発見してから調べてみて知ったのですが、実はこの壺は、三本脚のシンボルがアキレウスに結び付けられるようになった、もっとも初期の例のひとつなのだそうです! 紀元前六世紀(ca. 520 - 510 B.C)に(シケリアがトリナクリアをシンボルとして採用したのと同時期に)、アッティカ地方で作られた豪華な壺です。交易品として、大きな価値を持ったことでしょう。
ホメロスは『イーリアス』のなかで、アキレウスのことを「俊足のアキレウス」と言います。有名なゼノンのパラドックス「アキレスと亀」も、アキレウスの足が速ければこそですの設定です。(世界一足の速いアキレウスと、世界一足の遅い亀の競争というわけです。)おそらく三本脚のマークは、俊足、そして足の速さを基礎とした戦闘能力の高さを表すものとして、アキレウスと結び付けられたのでしょう。つまり、マン島のトレカシンには、「どこに投げられても立つ」という意味のほかに、より一般的な含意として、(アキレウスと結びついた)「俊足と戦闘能力の高さ」という意味があったのではないかと思われるのす。そもそもシシリー島のトリナクリアにも、(「三つの岬」というだけでなく)その含意があったのかもしれません。
結局、マン島を訪れても、このシンボルの由来について、絶対確実といえるような情報は得られませんでした。このシンボルには、時間のヴェールの向こうでぼやけてしまうほど、長い歴史があるんですね。
しかし、マン島に行ったおかげで、ひとつわかったこともあります。それは、マン島の人たちが、このシンボルをとても気に入り、誇りに思っているということです。それを肌で感じ取れたことで、マン島の三本脚は、わたしにとっても特別なものになりました。
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