アウグスティヌスとビッグバン宇宙論
およそ時間に関する書物のなかで、アウグスティヌスのあの言葉を引用していないものはあるのだろうか? と、そんなことを考えてしまうほど、次の言葉はよく引用されます。ほんとうに、ほんとうに、よく引用されるんです。
考えてみれば、ちょっと不思議ですよね。時間については古今東西いろいろな人がいろいろなことを言っている。それなのになぜ、20世紀や21世紀に書かれた時間に関する本にさえも、1500年ほども前のアウグスティヌスのこの言葉が引用されるのか? しかもその内容はといえば、「時は金なり」とか「光陰矢のごとし」といった格言でさえなく、「改めて考えてみると、よくわかんないんだよね、時間って」みたいな、ふとしたつぶやきっぽいセリフなわけで….。はじめてアウグスティヌスのこのセリフに出くわした人は、どう受け止めたらよいかわからず、困惑するのではないでしょうか?
しかし、当然ながら、このフレーズが引用されるのにはそれなりに理由があるんです。このフレーズは、『告白』の中の、「アウグスティヌスの時間論」と呼ばれる有名な部分の、比較的はじめのほうに置かれているのです。つまりこれは、アウグスティヌスが時間の問題に深く踏み込む際の、前置きのような言葉なのであります。
アウグスティヌスの時間論とは、どういったものなのでしょうか? 彼は「時間」を、物理学の世界から取り出して、心理学の世界に持ち込んだと言われることがあります。それまで時間は、天体の動きや、運動物体の動きと結びつけられていた。その意味で、時間は物理学の世界にあった。ところがアウグスティヌスは、「でもそれって、時間そのものじゃないよね」と言うのです。物体の運動が止まったからといって、時間がなくなるわけではないよね、と。
そして彼は「時間」を、意識の領域に移した。過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していない。今このとき、われわれは過去のできごとを想起し、未来の出来事を予想することにより、時間を捉えるのである、と。こういう時間の捉え方は画期的で、後世の哲学者が時間について論じるときの土台になったとも言われます。
というわけで、時間を物理学から心理学の領域に移したとされる「アウグスティヌスの時間論」ですが、何を隠そう、わたしははじめてその部分を読んだとき、「うわ、これってビッグバンじゃん…」と驚いたのです。そして、別の意味で(=心理学的な観点ではなく、物理学的な観点から)アウグスティヌスの議論に引き込まれました。
現代物理学的な観点からポイントになるのは、天地創造は、
1 無からの創造である。
2 時間と空間が同時に作られた。創造以前、時間はなかった。
と、アウグスティヌスが精緻に力説していることです。(したがって、この記事のタイトルには「ビッグバン宇宙論」と書きましたが、一般相対性理論から出てきた膨張宇宙というよりは、その先にある、インフレーションが作られた頃の議論までを視野に入れています。)
二十世紀になって、ビッグバン宇宙論の原型となるものを、カトリックの司祭だった(とはいえ、ちゃんとした物理学者の)ジョルジュ・ルメートルが提唱したとき、多くの物理学者はおぞけをふるったんですよ。アインシュタインなどはルメートルに面と向かって、「あなたの数学は正しいが、あなたの物理はおぞましい」などと言ったほどです。そして、物理学者たちが少々過剰反応をしたのには、それなりの理由があるんです。
何者か(夫婦である二柱の神だったり、怪物だったり、デミウルゴスだったり)が宇宙を作ったという創世神話的なものは、世界各地のありとあらゆる文化にあります。そんなものにいちいちあれほどの過剰反応はしませんよ。もしもキリスト教においても、旧約聖書の創世記のような創世神話のままだったらーーアウグスティヌスの時間論とそれに続く展開がなかったらーー二十世紀に起った物理学者たちの、ルメートルの説に対する拒否反応はなかったかもしれません。
時間の問題を、物理学の領域から心理学の領域に移したと言われるアウグスティヌスの時間論。一般相対性理論以前なら、たしかにその通りだと思います。しかし、一般相対性理論を仕上げたアインシュタインが、それを宇宙全体に応用してからというもの、つまり、物理学が宇宙全体をまともに扱えるようになってはじめて、アウグスティヌスの時間論は、思いもよらぬかたちで、物理学的な時間とふたたびかさなったと言えるかもしれません。そして科学者は、キリスト教の科学への侵入を強く恐れたーーそしてそれは、大いに理由のあることなのですよね….。
なお、この記事トップに使った画像は、1992年に発表された、COBE(宇宙背景放射探査機)で得られた宇宙背景放射のゆらぎです。「神の顔を見るようなもの」とか「神の筆跡」などと報道されて話題になりました。その後、データはだいぶ精緻化されています。一番左が1992年のCOBEによるもの。真ん中が2003年のWMAP(ウィルキンソン・マイクロ波異方性探査機)、左側が2013年のPlanck(プランク衛星)によるものです。今日、宇宙論は驚くべき精密科学となっています。
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