謎の植物シルピオン:古代の万能薬にして避妊薬・堕胎薬、そして絶滅が記載された史上初の植物
アポロンの神託で有名なデルフィ(デルポイ)を訪れたときのこと、傾斜のきつい遺跡の斜面で、ひときわ目を引く大きな植物 Ferula communis (オオウイキョウ)に出会いました。その立派な姿がとても印象的だったので、帰国後に少し調べてみたところ、オオウイキョウの親戚筋に、古代においてはきわめて重要だった「シルピオン」(ラテン語の読みだとシルフィウム)という植物がある、というか「あった」という説を知りました。後述のように、シルピオンは絶滅しているため、その素性は謎で、今も議論があるようです。つまり、Ferula communisとの関係もよくわからないのです。そんなこんなで、そのときはそれ以上深入りしませんでした。
ところがその後、「ローマ」というドラマを見ていたときに、シルフィウムという音が耳に飛び込んできたのです。
で、シルフィウムがいかなる状況でドラマに出てきたかというと、ある女性が堕胎薬を買う場面でした。「え? シルピオンって堕胎薬なの?」と興味を引かれたわたしは、そこから少し真面目にシルピオンの薬効について調べ始めたのでした。
こういう場合は、まずディオスコリデスとテオプラストスに当たるべきだと思ったので、まず、手持ちの京都大学学術出版会西洋古典叢書のテオプラストスに当たりました。
テオプラストスの本文そのものには、薬効という観点からの情報はあまりなかったのですが(そもそも『植物誌』は、草本への言及は少なく、ほとんどの関心は樹木に向けられている)、訳者である小川洋子氏の訳注に有益情報がありました。
そうか、医薬としてはやはりディオスコリデスなんだな、と思ってその箇所にあたったところ、次のようにシルフィウムの薬効が書かれていました。
冒頭は、「おならが出るうえに膀胱にも悪い」という、有害性ですね。ともかく、この調子でずるずるずるずると薬効の記述が続き、何十、ひょっとすると百近い薬効が書かれている、かも、です(ちゃんと効能の種類を数えあげる根性がありませんでした)。
なるほど、古代世界では、シルピオンは万能薬として高い値段で取引されていたというのもうなづけます。なにしろシルピオンは、「同じ重さの銀、さらには金とさえ交換された」と言われているのです。(この記事の冒頭に掲げた図は、シルピオンの交易の様子で、重さを計量する秤が描かれています。)
また、シルピオンを特産物として輸出していたアフリカ海岸のキュレネ―地方では、硬貨にシルピオンが刻まれていました。古代世界では超重要な薬、シルピオン。いや、薬としてだけでなく、香水としても使われ、また樹脂は甘かったという話も。すごいな、シルピオン。
でも、今わたしが知りたいのは、堕胎薬としてのシルピオンです。で、ディオスコリデスをひたすら見ていくと、あった! これだ! たぶん。
コショウおよびミルラといっしょに服用すれば、月経血を排出させる。
これは子宮内膜剥離だろうから、妊娠中なら胎盤剥離につながる、かも?
ディオスコリデスを見た時点では、その先まではわからなかったのですが、最近、ウェブ上で情報をあさっていたところ、そのものずばり、古代ローマの女性たちの避妊・堕胎に関する論文に出くわしました。(テキサス大学サンアントニオ校で、教授の指導を受けて学部生が書いたものです。)
https://provost.utsa.edu/undergraduate-research/journal/files/vol4/JURSW.Brazan.COLFA.revised.pdf
古代ローマの女性たちは妊娠出産がらみで死ぬことが多く(まあ、他の地域でも同様でしょうが…)、さらに、裕福な階層以外は何人もの子どもを養うことができなかった。売春婦ともなれば、妊娠してしまえば直接的に収入の道が閉ざされることにもなるため、あの手この手で、まさしく命がけで避妊・堕胎をしたんですね。で、この論文は、いくつもの資料を引いてその実態に迫っているのですが、当時さまざまあった(多くは危険な)避妊・堕胎の方法のなかでも、シルピオンはとりわけ重要だったようです。
論文によると、避妊・堕胎薬としてシルピオンに言及している人は多い。たとえば、ローマ時代の産科の名医ソラヌス(ただしソラヌスは、胎児を殺してしまうから危険であるとして言及しており、使用を奨励しているわけではない)、上述のテオプラストス、プリニウス父(ただしプリニウス父は中絶反対論者なので、避妊薬としてのみ言及)。多くの識者は基本的に、堕胎薬としてのシルピオンの使用に警鐘を鳴らす立場だったようです。しかし、それにもかかわらず、ローマ時代は、堕胎薬としてさかんに使われたらしい。ドラマ「ローマ」に描かれていた状況ですね。
ところが、万能薬にして女性にとっては避妊薬・堕胎薬だった貴重なシルピオンは、あっさり絶滅してしまいます。その原因については諸説あり、北アフリカのキュレネーあたりにしか産出しないデリケートな植物なのに乱獲されたのではないかとか、むしろ土地が砂漠化したせいではないか、とか。いずれにせよ、一世紀(54年頃)には、最後の一本が、ローマ皇帝ネロに献上されたと記録されています。それを最後に、シルピオンは姿を消し、歴史に記録された最初の(植物だけでなく動物まで含めた)絶滅種となったということです。
余談ながら、「絶滅したとされるシルピオンがトルコに生息していた」という説を、近年イスタンブール大学の研究者が唱えたようですが、その主張に対してはいろいろな角度から否定的な意見が出ているようです。やはり絶滅したのかも….? でも、古代において非常に重要な植物だったことは、記憶に値するでしょう。
最後になりますが、わたしがシルピオンに興味を持つきっかけとなった、デルフィで見たFerula communis の写真と、キュレネ―で鋳造されたコインの写真をあげておきます。
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