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「ディドー問題」を知っていますか?

■もともとのディドー伝説

「ディドー問題」を知っていますか? というタイトルを掲げましたが、そもそも、ディドーという人を知っていますか?

  (この人物の名前のカタカナ表記は、ギリシャ語ラテン語の音引き
   を省略しなければ「ディードー」です。この記事では音引きをひ
   とつ省略して「ディドー」とします。「ディード」とする人もい
   ますし、ふたつとも省略して「ディド」とする人もいます。)

ディドーは知らなくても、カルタゴはご存じでしょう。そう、ポエニ戦争でローマを苦しめた、あのカルタゴです。ハンニバルを生んだ、あのカルタゴ。ディドーはそのカルタゴの建国の祖とされる、伝説上の女性なのです。 

ディドーの名前が歴史上はじめて登場したのは、紀元前四世紀末から三世紀にかけて活躍した歴史家、タオルメニウム(現在のシチリア島タオルミナ)のティマイオスが書いたシケリア(現在のシチリア)の歴史書の中だとされています。この書物は失われていますが、タオルメニウムのティマイオスは影響力のある歴史家だったようで、後世、いろいろな人がその書物の内容に言及しています。で、タオルメニウムのティマイオスによると、彼女がカルタゴを建設したのは、紀元前814年。ということはつまり、ディドーの名前が歴史上はじめて登場したのは(ティマイオスの本の中なのだから)、カルタゴが建設されたとき(前九世紀)から五世紀ほども後ということになります。(したがって、細部に関する信憑性はあまり高いとはいえない….)

ともかく、タオルメニウムのティマイオスによれば、ディドーはフェニキアの都市テュロスの王女だったそう。カルタゴがフェニキアの植民地だったのは確かです。でも、ローマ建国やカルタゴ建設の経緯は伝説まみれで、何がどれぐらい歴史的事実かはよくわからない。そこで、いったん伝説側に振り切って、ティマイオスによる記述やその他の伝説をざっくりとまとめてつなぎ合わせると、カルタゴ建設のいきさつは次のようなものになりそうです。

ディドーは、フェニキアの都市テュロス(今のレバノンあたり)の王女だった。フェニキアでの名前はエリッサ。エリッサは、高位の神官でありきわめて裕福だった叔父と結婚する。父王は、ゆくゆくはエリッサと、その弟ピュグマリオンが、テュロスを共同統治することを望んでいた。しかし父王が亡くなると、ピュグマリオンは権力を独占しようと叔父を殺害し、姉の命も狙ったので、エリッサは自分に付き従う者たちを引き連れて祖国を脱出し、シケリアで神官や乙女たちを加えながら地中海を航海して北アフリカ、現在のチュニジアあたりに到着した。ディドーと呼ばれるようになった彼女は、その地の先住民の王と交渉して土地を分けてもらい、カルタゴを建設した。その際、最初に入植先に選んだ土地を掘ったら牛の頭が出てきたため、縁起が悪いということで別の土地に移り、その土地を掘ったら馬の頭が出てきたので、縁起が良いということで、そこに決めた。ちなみに、ディドーという名前は、先住民から見て、「さまよえる者」という意味らしい(「神に愛された者」という意味だとする説もある)。先住民の王は、ディドーの才能を見込んで結婚を申し込み、もし断れば戦争も辞さないと言ったので、ディドーは国を守るため、そして亡き夫に対する貞節を守るために自殺した。

諸々の伝説を青木がざっくりまとめたものw

ともあれ、ここに述べたことはあくまでも伝説です。そして、これだけなら、世界中にさまざまある、魅力的な建国伝説のひとつで終わっていたことでしょう。

■ウェルギリウスにより不朽の名声を得たディドー

ところが、ローマの大詩人ウェルギリウスが、壮大な叙事詩『アエネーイス』の中で、ローマ建国伝説とカルタゴ建設伝説というふたつの伝説を絡めたことで、ディドーは不朽の名声を得ることになりました。

   ウェルギリウス以前に、このふたつの伝説を結び付けた人
   がいて、ウェルギリウスはそれを拝借したという可能性も
   ないとはいえませんが、そう考える積極的理由もなさそう
   です。また、 帝政ローマ末期の作家マクロビウスは、
   「ディドーとアエネーアスの物語が作りごとであることは
   誰でも知っている」と述べており、誰が最初に言いだした
   にせよ、フィクショナルな物語だという認識だったことで
   しょう。また、ふたつの伝説を最初に結びつけたのが誰
   だったにせよ、後世に絶大な影響力をもったのは『アエネ
   ーイス』です。これは断言できます。  

『アエネーイス』によると、主人公のアエネーアスが、陥落するトロイアを脱出して北アフリカまでやってきた。その際、アエネーアスがその地の女王ディドーに殺されたりしないよう、女神ウェヌス(アエネーアスの母親)がクピドに命じて、ディドーに恋の矢を打ち込ませます。しかし結局、アエネーアスはディドーの心を踏みにじってローマ建国のための旅を続け、傷心のディドーは自殺した、ということになります。ウェルギリウスは見てきたような話をいろいろするんですが、話が長くなるので省略します。アエネーアスとディドーの物語は、絵画や文学作品に取りあげられるだけでなく、オペラ作品にもなっているんですよ。ベルリオーズの『トロイアの人々』、パーセルの『ディドとエネアス』です。

で、ここでは、ウェルギリウスの『アエネーイス』から、ディドーがカルタゴを建設するための土地を入手したいきさつを引用します。女神ウェヌスが、息子アエネーアスに語った言葉です。

…そうしてディードが辿り着いた場所が、いま目の前にある巨大な城市、新しいカルタゴの城塞の聳え立つところです。ここに土地を買いましたが、ビュルサの名が示すように、その広さは一頭の牡牛の皮で回りを囲めるほどでした。

京都大学学術出版会西洋古典叢書『アエネーイス』岡道夫・高橋幸弘訳


ビュルサというのは、現在チュニジアの国立博物館が建っている丘のあたりですが、ギリシャ語のビュルサは「牡牛の皮」を意味します。カルタゴ時代の城塞の名前がボスラだったころから、「ボスラ→ビュルサ→牡牛の皮」という流れで、このような語源伝説が生まれたようです。とにかく、ウェルギリウスの記述によれば、ディドーは「一頭の牡牛の皮で回りを囲める」だけの土地を手に入れた。ラテン語ではtaurino quantum possent circumdare tergo で、たしかに「まわりを囲む」となっています。(「囲む」なのか「覆う」なのか気になるところですが、ウェルギリウスは「囲む」としている。)

じつは、この「牡牛の皮で囲む」という伝説を作ったのは、もしかするとウェルギリウスその人だったかもしれません。実際、叙事詩ではなく歴史書としてディドーの名前が出ているもっとも古い書物は、ユニアヌス・ユスティヌスが抄録したポンペイウス・トログスの『地中海世界史』のようですが、これには牡牛うんぬんは出ていません。

テュロス人はカルタゴ人を当てにして、より一層の勇気をもって彼(アレクサンドロス)と一戦を交えようとした。それというのも、ディドの例がテュロス人の気力を増強していたからである。つまり、カルタゴを建設して彼女が世界の三分の一を獲得したのであるが、もし彼らが、今自分たちで自由を守る場合よりは、かつて彼らの女たちが帝国を獲得した場合での方が、より大きな勇気を発揮されたとすれば恥ずかしいことだ、と考えたのである。

京都大学学術出版会西洋古典叢書『地中海世界史』合阪學訳

このように、『地中海世界史』には、ディドがカルタゴを建設したとは書いてあるけれど、牛の皮の話はないんです。しかし、わたしにとって(そしてこの記事にとって)牡牛の皮は非常に重要なので(笑)、さらに探究を続けます。ウェルギリウスの『アエネーイス』に多大な影響を受けて書かれたという、シーリウス・イタリクスの叙事詩『ポエニー戦争の歌』によると、

 その昔、ピュグマリオーンの国を捨てて海を渡り
 兄の悪行により汚れた王国を逃れた
 ディードーは運命の定めたリビュエーの岸に着いた
 そして、土地を買い上げ、新たな城市を建てた
 それは海辺に、裂いた牛皮で囲める広さの場所だった

京都大学学術出版会西洋古典『ポエニー戦争の歌』高橋幸宏訳


なんと、「裂いた牛皮で囲める広さ」になっている! 牛皮を「裂く」というプロセスが明確に記されているのです。シーリウス・イタリクスは、ウェルギリウスを非常に尊敬していたらしいのですが、ウェルギリウスの地名語源伝説に、さらにリアリスティックな尾ひれをつけたと言えましょう。まあ、ウェルギリウスの記述にしても、「一頭の牡牛の皮で回りを囲める」というんだから、たぶん皮を細く割いたんだろうな、とは誰しも思いますよね。それでもなお、「裂いた」牛の皮という、より具体的な尾ひれがついたことは、(のちの展開にとって)重要な一歩であるように思われます。

とはいえ、古代の文献では、「牛皮で囲んだ」「裂いた牛皮で囲んだ」、「牛皮で覆った」あたりまでです。それ以上のことは出てこない。

■現代の数学者により華々しい名声を得たディドー

ところが、現代では、ディドーは時代に大きく先駆けた天才女性数学者ということになっているんです。

たとえば、ウィーン生まれの著名な数学者で、クルト・ゲーデルの先生でもあったカール・メンガーは、1934年の「変分法とその応用」という記事のなかで次のように書いています。

変分法の問題を最初に説いた最初の人間は、カルタゴの女王ディドーであるようにみえる。

Karl Menger ,1934

ディドーは変分法の問題を解いたことになっている。「変分法とは何か」につきましては、知っている人はとくに聞きたくもないだろうし、知らない人もおそらく聞きたくないだろうと思うので(そこそこ専門的な話になるので)、省略します。

さらに二十一世紀になると、たとえば2004年にブルース・ヴァン・ブラントはスプリンガーから出した『変分法』という、学部最終学年ぐらいから院生向けの教科書の中で、ウェルギリウス的な物語を紹介し、さらに次のように述べます。

….そこで彼女は一頭の牡牛を選ぶと、その皮を非常に細く切り、それらをつなぎ合わせて牛革の紐を作ったところ、その長さは二マイル半以上になった。そうしておいてディドーは、牡牛の皮紐と、海岸を利用し、自分の土地の境界を定義した。…..ディドーがその紐と海岸線で最大の土地を囲もうとしたのは明らかである。かくしてカルタゴは、皮紐と海岸千で定義された周の中に建設されたのであった。ディドーはその場所を、「牛の皮」にちなんでビュルサと呼んだ。

B. van Brunt, 2004

すごく具体的!(笑) 「最大の土地」という要素が明示的に書かれています。もちろん、ディドーは最大の面積を囲もうとしただろうな、と誰しも思いますが、数学者が「最大」というときは、「だいたい最大」ではなく、「最大」なのです!(笑)

このほかにも、ディドーが変分法の問題を解いたという記述はあちこちで見られます。つまり今日、ディドー(紀元前九世紀)は、ミレトスのタレス(c. 624-548 B.C.)、サモスのピュタゴラス(c. 570-490 B.C.)、アレクサンドリアのエウクレイデス(335-401 A.D.)、アレクサンドリアのパップス(290-350 A.D.)に大きく先がけて、等周問題といわれる数学上の問題(同じ長さの周をもつ図形の中で最大面積の図形はなんであるか、という問題)を解いたことになっている。そればかりか、18世紀のヨハン・ベルヌーイにはじまる変分法の発展に二千年ほど先立って、変分法の問題を解いたとまで言われているのです。

一般向けの数学啓蒙書も多数書いている数学者のモリス・クラインに至っては、アエネーアスに捨てられたせいでディドーが死んだことを、

これはローマ人が数学者になした最初の打撃であった。

Morris Kline, 1985


と書いています。(クラインはここで、後年、アルキメデスがローマ兵に殺されたことを念頭に置いているわけですね。)

ところが、古代の数学者は誰ひとりとして、ディドーに言及していないようなのです。重要な幾何学の定理を証明し、『数学選集』という著作もあるアレクサンドリアのパップスも、ディドーには言及していません。では、いったいなぜ、現代の数学者はディドーを、時代に大きく先駆けた天才数学者にまつりあげることになったのでしょうか?
 

■数学の問題として「ディドー問題」を設定したのは誰か?

いったい誰が、ウェルギリウスの『アエネーイス』に登場する悲劇のカルタゴ女王ディドーを、変分法の問題を解いた天才数学者ディドーにしたのでしょうか? このふたつのディドー像のあいだのギャップを埋めるのは誰なのか? その人物は、変分法に通じた数学者、または物理学者でなければなりません。同時に、ディドーのエピソードに通じた、古典的教養人でもなければならないでしょう。

そう考えたとき、まず第一に頭に浮かぶのは、レオンハルト・オイラーです。彼は、物理屋なら泣く子も黙るオイラー=ラグランジュ方程式にその名を残す偉大な数学者で、変分法と物理学に大きく貢献している。しかもオイラーは超人的な記憶力の持ち主で、『アエネーイス』を完全に暗記していたらしいのです。あるページの最初の言葉を誰かに挙げてもらって、そのページの最後の言葉を言うことができたらしいですよ。もちろんラテン語で。

しかし、オイラーはディドーにはひとことも言及していないようなのです。彼と親しかったラグランジュもまた、泣く子も黙るラグランジアンにその名を残す偉大な数学者ですが、ディドーには言及していない。関連する問題について論じたとき、ラグランジュは古代ギリシャの数学者アポロニオスには言及していますが、ディドーには言及していない。

オイラーじゃないとすると、いったい誰が?

その答えをわたしに与えてくれたのが、テキサス大学アーリントン校の航空工学准教授で数学史科でもあるドーラ・ムジエラクさんでした。わたしは、「いったい誰が?」とウェブ上で資料をあさっていて、ムジエラクさんの、「ディドー問題:古典文学の神話は、いつ変分法の問題になったのか」という、そのものずばりの論文を見つけたのです。

で、わたしが探し求めていた人物は、なんと! ケルヴィン卿でした。絶対温度の単位であるケルヴィンにその名を残す偉大な物理学者で、十九世紀から二十世紀への変わり目の頃に、絶大な影響力をふるった人です。1894年に刊行された三巻からなる『一般向け講義と講演集』のなかで、ケルヴィン卿はこう述べています。

….彼女はその牡牛の皮をとことん(exceedingly)細くカットして、その皮紐と海岸線によって、カルタゴを建設する非常に価値ある領土を囲むことに成功したのでした。ディドーの問題では、与えられた長さで囲まれるというところに、土地の最大の価値がありました。もしもその土地がいたるところ同じ価値をもつのであれば、この問題に対する一般的な解は、牛皮紐は円形に置かれなければならない、というものになります。また、もしも境界線に海岸線が含まれるのなら、たとえば、海岸線上の一点である任意の点Aから内陸を通って南に向かう境界線は、他方の端点において垂直に海岸線を切ることが示されます。さてここで、われわれは解を完結させるために、非常に興味深くて面白い、しかしそれほど簡単ではない幾何学的問題にぶつかります。すなわち、未知の点Cにおいて、与えられた海岸線ABCを垂直に切るようにするためには、与えられた長さの円弧ADCの半径はいくらでなければならならないか、そしてその円弧は、点Aをどの向きに出発しなければならないか? 

Popular lectures and Addresses by Sir William Thomson(Baron Kelvin)

そしてケルヴィン卿は、こう付け加えます。十分な数学的知識をもっていたディドーは、答えが円であることを導き出しただろうし、より価値ある土地を手に入れるために、その境界線の場所ごとに異なる曲率を与えただろう。そして、「場所ごとに異なる曲率を与えれば、囲まれた土地の面積は、同じ長さの周で囲まれる面積の中で最大にはならないのですが」と。なかなか興味深い広がりを持つ、数学的な「ディドー問題」の設定だと思います。

なお、この記事のトップに掲げたのは、ケルヴィン卿が実際に使ったディドー問題の説明の図です。

■ディドー伝説の新章へ

ディドーが等周問題や変分法の問題を解いたというのは、もちろん言いすぎです。ですが、伝説上の(もしかしたら対応する女性が実際にいたかもしれない)ディドーは、非常に魅力的な女性です。フェニキアの王女だった彼女は、数学においても高い教育を受けていた可能性があります。フェニキアは、交易とさまざまなイノベーションで知られる国でした。算術と幾何学も発展していた。さらに内陸のメソポタミアは、天文学も大きく発展していた時代です。ディドーは、彼女を支持する臣下を率いて地中海を航海し、先住民と巧みに交渉して土地を得て、カルタゴを建設したパワフルな女性なのです。『アエネーイス』では悲恋物語の女になってしまいましたが、それにしても、あのウェルギリウスによる『アエネーイス』が、彼女に不朽の名声を与えたのは事実。

さらにさらに、あのケルヴィン卿が、数学的「ディドー問題」を発展的に定義したとなれば、これはもう、ディドー伝説の新章といっても過言ではありません。ディドー問題は、等周問題や変分法への導入として、とても魅力的なエピソードだと思います。数学者のみなさんは、「なんだ、歴史的事実じゃなかったのか….」と、がっかりしてディドーを忘れるのではなく、ケルヴィン卿による新展開まで含めて、この魅力的な女性のエピソードを広めていただきたいと思うのです。どうかよろしくです!


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