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イエス・キリストの福音とは何か

 私が信仰を持った十代の頃の福音の理解は、イエス様が私の罪のために十字架にかかり3日目によみがえったこと、それを信じる者は救われて天国に行くことができる、そしてイエス様はこの悪の世界を滅ぼすためにもう一度来られるということでした。救われた私たちは人々が救われるように伝道することが生きる意味でした。この世界は悪であり、滅ぼされるべきものでしかありませんでした。

 しかし数十年たった2017年頃、N・T・ライトの著書「クリスチャンであるとは」「シンプリー・ジーザス」などを読み、福音や神の国の理解が大きく修正されました。今までなんとなくももやもやしていたものが、霧が晴れるような気がしました。福音書のイエス様のメッセージがはっきり見えてきたのです。
 そして「シンプリー・ジーザス」の訳者である山口希生師を囲んでOCCで毎月1回開かれた読書会に参加して、同じ思いを持つ参加者の方々と共に、新たな福音理解、いや本来の福音理解へと導かれました。

 死んだ後天国に行くことが最終ゴールでもなければ、それだけが福音ではない、天と地が新しくされて神の国が来る、いやすでに神の国が始まっている、イエス様が王となられた、これこそが福音であり、私たちの最終的希望なのだと知りました。

 若い頃から聖書を学ぶために「聖書を読む会」のテキストを使っていましたが、2018年に「救いの基礎」というオリジナルテキストが発行されました。そのテキストはまさにその福音理解に沿ったものでした。
 発行に伴い総主事の島先克臣氏が「神のご計画ー世界の創造から完成まで」と題してセミナーを開いてくださいました。島先氏が宣教師であった頃に面識がありましたが、氏がこのテキストを作成した経緯をご自身の経験を通して語って下さり、このような福音理解が広まってきていることを実感しました。

 この理解に至る前には福音書がいまひとつしっくりと理解できませんでした。十字架と復活の大切さはわかるものの、そこに至るまでのイエス様の教えは私たちがいかに罪深いかを教えるもので、いやしや奇跡はご自身が神の子であることを証明するためという理解でしかありませんでした。

 そして福音書の最初に書かれている「イエスは福音を宣べ伝えた」という「福音」とは何なのか。「福音」が十字架と復活を信じて救われることであるなら、まだ十字架と復活のことは誰にも明らかにしていないはずなので、そこが引っかかっていたのです。

 思い返せば救われた当時の教会では、新約聖書の書簡がよく読まれていて、そこから信仰というもの、そしてどう生きるかということを学ぶことが多く、福音書から学ぶことが少なかったように思います。信じた後は福音書はもう卒業したかのように。

 ところが、神の国が来ている、世界は新しくなるというイエス様の福音を知ったとき、福音書にかかっていた霧がすっかり晴れていきました。その視点で見ると実は使徒パウロも同じことを言っていることがわかりました。実は教会で毎週唱えられている使徒信条や主の祈りにも、天国へ行くという事柄は無く、「かしこより来りて(天からイエスが再び来て)」とか、「御国が来ますように」という神の国への希望があることに、なぜ気づかなかったのだろうと思います。
 「神の国は近づいた」というイエス様のメッセージこそが「福音」であり、神の国とは何なのかを教え、また癒しと奇跡をもって神の国を現わしてくださったのです。そして私たちが神の国に入るためにイエス様は十字架にかかってくださったのです。しかしその神の国とはいわゆる「天国」ではなく、回復された新しい天と地なのです。

 聖書を読む会の「救いの基礎」と「神のご計画」はこの聖書理解を学ぶための手ごろなテキストです。じっくり学ぶための書籍は以下がお勧めです。

福音の再発見 スコット・マクナイト
クリスチャンとは N・T・ライト
シンプリージーザス N・T・ライト
わが故郷、天にあらず ポール・マーシャル
聖書六十六巻を貫く一つの物語

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