小説:波の風景
波のない人生を。
彼の世界は騒音で満ちていた。街の喧騒、人々の話し声、機械の轟音。それらは彼の肉体を震わせ、緊張を生み出す。体の緊張、外の世界に接するたびに筋肉が硬直して疲労していく肉体。
電車に乗車する前、駅構内の休憩所に入り、手を振るわせながら、胸ポケットに手を伸ばし、耳栓を取り出す。
耳栓を手に取り、両手のひらを耳で包む。彼は目を閉じ、深呼吸をして、最後に息を吐きった後に、耳の穴に詰める。
耳に挿入すると、彼の震えは止まる。周囲の雑音は消え、心の中の雑念も静まり、彼は自分自身を取り戻す。耳栓は彼にとって、ただの物ではなく、自己を保つためのアンカーになっていた。
「無駄な波の影響を受けたくないんだ」
自分の世界を乱すもの、たとえそれが些細なことであっても、決して許さない。彼の心の中には、秩序と静寂への執着が渦巻く。
「はぁ、、」と彼は息をつく。スーツが擦れる音、会議での無駄話、通りすがりの笑い声、彼にとって、それらはすべて耐え難いノイズ。彼はそれらを静めるために、耳栓を常に携帯している。電車のひどい轟音だって、幾分は抑えてくれる。
「ほとんどが無駄だ、無駄な波だ」
私の秩序は無駄な情報を受け取ることを拒む。
電車を降り、駅の喧騒を背にして歩き始めると、周囲は驚くほど静かになる。街灯がぽつぽつと点在する道を進むと、人々の姿は次第に少なくなり、やがて全く見かけなくなる。足音だけが響き、心の中で自分の存在を確認する。
道は緩やかに曲がりくねり、時折、小さな橋を渡る。水面に映る月の光が、道しるべのようだ。そして、その先には、小高い丘があり、そかにひっそりと佇む鳥居が見えてくる。ここに来る人は少なく、静寂に包まれている。
石段がそびえ立つ。神社、決まって、私は神社に足を運ぶ。
石段を一歩一歩踏みしめながら、辺りにきっとある音のある静寂は聞こえない。
彼は一種の儀式めいた執り行いをする。
「耳が聞こえない静けさ」
耳の穴から詰めた耳栓を器用に摘みゆっくりと取り出す。
「耳が聴こえる静けさ、」
私の声が響き渡ってる、のを感じた。
「私は後者が好きだ、聴くことが好きなんだ、耳あたりの良い波を」
唱える、境内の空間に広げるように。
神社の石段を上がりきったところで、彼は立ち止まった。足元には苔むした石が散らばりっていた。
苔。石。
奥に進んでいき、古木に囲まれた小さな社の前に立つ。
落ち着き払った調子で彼はポケットにてをのばす。
彼の手には小さな爪切りが握られており、その刃が光に反射してきらめいていた。
彼はゆっくりと爪を切り始める。その一振り一振りに、周囲の空気が震え、響きが木々の間を通り抜け、境内の隅々まで届く。周囲の木々は、その音に反応するかのように葉を揺らす。
風が通り抜けるたびにささやき声を立てる。私はその音に耳を傾けながら、自分の行為がこの場所の一部になっていくことを感じていた。爪を切るという日常の行為が、ここでは一つの祈りとなり、一つの物語の波に耳を傾けること。
苔。指。ゆっくり重ねる
そうして切った後の尖った爪を苔に擦り付ける。湿と柔。爪と指の隙間に小さな植物が入り込み、指先が碧に色づく。私はそれをじっと眺める。
「自然なリズムだ」