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【感想】金井一郎 翳り絵展-「銀河鉄道の夜」を巡る旅-@武蔵野市立吉祥寺美術館

どえりゃあキレイだった。

【展覧会詳細】

会名:金井一郎 翳り絵展-「銀河鉄道の夜」を巡る旅
会場:武蔵野市立吉祥寺美術館
会期:2024年9月21日(土)〜11月4(月)

※ぐるっとパスで入場可能


■ 感想

光と影をテーマとする造形作家、金井一郎。
今回の展覧会は、金井さんの作品の中でも『銀河鉄道の夜』シリーズに焦点を当て、絵本未掲載を含む翳り絵36点と、乾燥させた植物や木の実のなかに小さな光を仕込んだランプや、ジオラマのような街並みに灯りを灯した物語性あふれるオブジェを展示している。

この「翳り絵」とは金井さんが独自に編み出した技法のこと。
既存の表現方法では飽き足らず、独自に技法を編み出すって相当な熱量だ。
そんなパッションの源になったのが、宮沢賢治の名作『銀河鉄道の夜』。

金井さんは小学校四年生のときに『銀河鉄道の夜』を読んで、大きな衝撃を受けたのだそう。その強烈な読書体験が、『銀河鉄道の夜』の世界を視覚化したいという熱意へとつながる。

当初は影絵で制作をしていたものの、なかなか納得のいくものに仕上がらない。

「独特の透明感と暗さのある『銀河鉄道の夜』を表現するには平坦な描写では物足りなかった」とのこと。

長い試行錯誤の末、完成したのが「翳り絵」。

針で無数の孔をあけた黒いラシャ紙を重ね、後ろから当てた光が針孔を通り複雑に屈折することで独特の立体感と透明感を創り出す「翳り絵」を考案して、繊細な幻想世界の表現を生み出すことに成功した―――

もう一度書きます。

" 針で無数の孔をあけた黒いラシャ紙を重ね、後ろから当てた光が針孔を通り複雑に屈折することで独特の立体感と透明感を創り出す "

ドゥ ユ ーアンダースタン?
おれはね、アイ キャンノット アンダースタンド だったよ。

いったいぜんたいどういうこと?

でもこの疑問はとっても大事。
なぜなら、この作品の魅力は、まさに「本物を見ないとわからない」から。

つまり、実物を目の前にしたら、一発でわかる。

金井さんが「平坦な描写では物足りない」と感じた理由。「翳り絵」の独特の立体感と透明感。

その理由が一発でわかる。

目の前には「繊細な幻想世界」がそのまま広がっている。ただただ美しい。

もちろん、印刷された絵を見ても、ブラウザを通して画面越しに作品を見ても、美しさの一端は伝わる。現に、自分はスマホで展覧会のことを知って、興味を持ったのだから。

それでも、実物を前にしたときの、時が止まるような感覚に勝るものはないと思う。「時が止まるような」という感覚は、「息をのむ」から起こるのだと気づく。
美しさに息をのむ。その瞬間、呼吸が止まる。呼吸が止まると、まるで時の流れまで止まったかのような錯覚に陥る。

***

暗い展示室のなかで浮かび上がる作品たち。
奥行のある作品が、背後からの光を受けて、今目の前で輝いている。

星空、ススキ、木、葉、花、川、岩肌、山肌、丘、人の影、少年たち、青春、明るさと暗さ、高揚と失意。

遠く眼下に広がる街の灯り。
走る鉄道。

作品によって光の強さは異なる。
強く煌めく作品もあれば、街灯の届かぬ森のように淡くしか光らない作品もある。

力強く輝く作品は、遠くで見るほど輪郭がはっきりとする。
近づくにつれて輪郭がぼやけていく代わりに、草や水の質感が浮かび上がってくる。

光の弱い作品は、遠くからでは全体像がつかめない。
近づいて初めて形がわかり、近づいたがゆえに、視界いっぱいに絵が浮かび上がる。

近くで見るか、遠くからみるか。
正面から見るか、横から覗くか。

自分の立ち位置で絵の表情が変わる。

***

郷愁。

どの景色も自分の目で見た景色ではないのに、どこか懐かしい。
この感覚はきっと、『銀河鉄道の夜』を読んでいなくても、湧き上がってくるのではないか。

生まれたときから電気に恵まれ、夜も街明かりで煌々と明るい時代を生きた自分には、絵の中の「街灯」の明かりが、いったいどれほどに輝いて見えたのかを知る術はない。
ただ星明りにのみ照らされた丘を駆ける少年が見た、夜空の明るさと、照り返す草の輝きなど、なおさら知る由もない。

それでもたしかに「懐かしい」と思う。
この感覚を、遥か未来を生きる人々も同じように感じるのだろうか。

***

創作には粘り強さと発想の転換が必要なんだな、と改めて思う。

頭の中に明確な「正解」が見えているからこそ、目の前の現実を見て、正解に辿り着いたか否かが判断できる。まだ足りない、まだ足りない。創作する人たちに共通する粘り。個人であれば、足りるまでひたすらに自分自身で試行錯誤を重ねる。チームプレイであれば、正解に近づくために周囲に自分のイメージを伝え続ける。

既存のやり方で正解に到達できなければ、発想を転換させる。

「平面で無理ならば、立体ならどうだ?」
「正面からではなく、背後から光を照らしたらどうだ?」

その解決方法は、生み出されたあとで振り返れば、奇想天外な手法には見えないかもしれない。けれども、道がないところに道を作るのは本当に大変なことだ。

自分には創作の才能は一切ないが、人生でひとつでもこんな作品を生み出せたら、そこで満足するに違いない。静かに、けれどもたしかに輝く作品を見ながらそんなことを思う。


■ 陰翳礼讃

会場に入ってすぐのところに飾られている「植物ランプ」。このランプたちは部屋を明るく照らすためのものではなく、暗がりを楽しむためのもの。

谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い出す。
日本の美を語る際にたびたび引き合いに出される『陰翳礼讃』だが、その語り口は全然かしこまっておらず、むしろ延々と「愚痴」と「おれ様論」が展開されているので、ふざけた人間ほど読みやすいと思っている。

蛍光灯に対する執拗な攻撃。
「明るすぎ!影を、陰を、消すな!風情がない!美しくない!」と蛍光灯を責め立てる。蛍光灯泣いちゃうよ。

西洋と東洋の女についての語りも、「西洋は"暗いなら明るくしてまえ"という電気文明だったから女は見た目に特化した。コルセットとかいう謎文化も見た目特化ゆえに発達した。だから西洋の女は『白くて綺麗だな~』と思って抱き寄せた瞬間、肌がガッサガサで萎える。一方、東洋は"暗いなら暗さに順応しよう"の精神で生きてきたから、東洋の女は暗い中で魅力を発揮できるように、肌がきれいになった。きめの細かい、水分を含んだ吸いつくような肌。抱くなら断然東洋の女」というおれ様理論を、ソースなしのドヤ顔で展開する。現代でそんな発言したら炎上するぞ谷崎さんよ。

こんな感じで俗物の塊みたいな理論を語るのと同じ口で、「美」について真剣に語るのだから谷崎さんはずるい。たとえば漆器の美しさについてこんな風に語っている。

「昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもののように思える。派手な蒔絵などを施したピカピカ光る蝋塗りの手箱とか、文台とか、棚とかを見ると、いかにもケバケバしくて落ち着きがなく、俗悪にさえ思えることがあるけれども、もしそれらの器物を取り囲む空白を真っ黒な闇で塗り潰し、太陽や電燈の光線に代えるに一点の燈明か蝋燭のあかりにして見給え、忽ちそのケバケバしいものが底深く沈んで、渋い、重々しいものになるであろう」

「あのピカピカ光る(漆器の)肌つやも、暗い所に置いてみると、それがともし火の穂のゆらめきを映し、静かな部屋にもおりおりの風のおとずれのあることを教えて、そぞろに人を瞑想に誘い込む。もしあの陰鬱な室内に漆器というものがなかったなら、蝋燭や燈明の醸し出す怪しい光の夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減殺されることだろう。まことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛えられている如く、一つの灯影を此処彼処に捉えて、細く、かそけく、ちらちらと伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す」

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』

文章が美しすぎる。あんた本当にさっき蛍光灯をディスってた人と同じ人か?「おれが考える最強の女」を語ってたやつと同一人物か??

ともあれ、「暗さが生み出す美」はたしかにあると思う。今回の展覧会の美しさは、まさに暗闇が成せる技。

暗闇の中で蓮のランプが灯り、壁に光の点が映し出される。

満月の夜、星は消える。
強い光は弱い光を消し去る。

暗闇の中で浮かび上がるこの光は、明るい世界の中では見つけることができないのだ。

***

帰りのバス。雨が降る中の走行。
雨に濡れるフロントガラスに、対向車のライトが射し込む。
いつもと変わらぬ景色が、いつもよりも輝いて見える。



■ おまけ:石っこ賢さん

昔、盛岡に行った際にたまたま寄った「もりおか啄木・賢治青春館」で、宮沢賢治の幼少期のあだ名が「石っこ賢さん」であることを知り俄然賢治ファンになったおれ。
一緒に語られる啄木の色に溺れるエピソードと、賢さんの純朴エピソードの対比がすごくて情緒がジェットコースターだった。

ところで、金井さんの作者略歴に「1995年:光ファイバーで発光きのこ」と書いてあった気がするんだけど、見間違いだろうか。ちゃんと見とけばよかった。詳細が知りたい。

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