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日本の団体スポーツ30年史(前編)

1993年にサッカーのプロリーグであるJリーグが華々しく開幕した裏側で、不況のあおりを受け、多くの企業スポーツが立ち行かなくなっていきました。
企業チームが次々となくなり、地域と市民の手によるクラブチームが生き残りをかけ必死にもがき、プロクラブも企業・行政に振り回されながらも理想の姿を追い求めた・・・
そんなプロとアマチュアの狭間で揺れ動いた日本の団体スポーツ激動の歴史約30年を年表にまとめました。
まず前編として1993年から2008年を見ていきます。


1993年 Jリーグ開幕

特定の企業に頼るのではなく地域に支えられ自前で稼ぐプロスポーツとして、プロサッカーリーグの『Jリーグ』が誕生。
企業名を表に出さず地域名で呼び、地域の人々から”おらが街のチーム”と熱狂的な応援を受ける地域に根差したスポーツクラブを目指す。
つまりビジネスの側面だけでなく、地域密着といったスポーツ文化の醸成にも取り組む日本スポーツ界の挑戦がここに始まる。

  • 北海道白老で、名門企業野球部の廃部を受け、存続活動が起こる。

  • 人口4万6千人の鹿島町(当時)がアントラーズで活気づいた反面、ヴェルディ川崎が東京への移転希望をちらつかせるなど、Jリーグ初年度からホームタウン制の在り方が問われることに。

1994年 Vリーグ開幕

Jリーグの成功を受けて、バレーボールもプロ化を検討。日本リーグはVリーグに衣替えとなる。かつて日本のお家芸と呼ばれたバレーも人気低迷にあえいでいる現状に歯止めをかけなければならない。
残念ながら、日本人のプロ選手は一人も誕生することなく開幕を迎え、開幕戦直前には会社にプロ契約を迫った大林素子と吉原知子が解雇される騒動もあった。

  • 地域密着を標榜する川渕三郎Jリーグチェアマンと企業の論理を振りかざすV川崎オーナーである読売新聞渡邊恒雄氏との間で対立が深まる。

  • 社会人野球の大昭和製紙北海道の廃部を受けて、市民クラブ「ヴィガしらおい」が設立。廃部した企業チームの受け皿として誕生する市民チームの先駆けとなる。

1995年 Vリーグ初のプロ選手誕生

女子バレー・ダイエーがエースアタッカーである山内美加とプロ契約を締結。Vリーグ開幕時には誰もプロにならなかったため、念願の国内プロ第一号となった。
(国外では大林素子と吉原知子がイタリアでプロになっていた)
外国人監督の招聘、キューバ選手の獲得に続いて国内初のプロ選手誕生など、新しい手を次々と打っていくダイエーの姿は、Vリーグの未来を明るく照らすように見えたのだが・・・

  • 震災の被害を受けて、ダイエーがJリーグ準会員のヴィッセル神戸の支援から撤退する。

  • 国体を目標にしていたら頑張りすぎて(?)今期のJFLにまで昇格してしまった福島FC。選手の半数が教員か自治体職員である。

1996年 Jリーグが百年構想を掲げる

百年構想の要旨
 1.スポーツ文化の確立
 2.スポーツ施設を全国に作る
 3.スポーツを通じて地域の人々との交流を深める
 4.地域活動を支える
 5・障害を持つ人もスポーツを楽しめるシステムつくる

  • Vリーグがプロ化を断念する。性急なプロ化は、企業側からの反発も大きかった。

  • ヴェルディの地元軽視に落胆した川崎市の地元商店街が、地元実業団の富士通(のちの川崎フロンターレ)の応援を始める。

1997年 Jリーグ準会員である鳥栖フューチャーズが解散

メインスポンサーが撤退し資金確保が難しくなったことから、鳥栖Fの運営会社が解散。多額の費用をかけたにもかかわらずJリーグ昇格に三度失敗したツケが回ることに。
大企業を持たない地方のクラブは、Jリーグの夢を見ることは叶わないのか?比較的低予算でも運営ができる二部リーグの誕生が待たれる。

  • 女子バレーの名門日立が実業団リーグに降格。

  • 清水エスパルスの累積赤字が15億円に。Jリーグ各クラブの運営が厳しい状況であることが露呈される。

1998年 横浜フリューゲルスが実質消滅

親会社の意向により、横浜Fが横浜Mに吸収合併され事実上消滅することに。企業の論理に左右されないスポーツクラブというJリーグの理念を根本から覆す事態に。
地域密着を理念にスタートしたJリーグだが、従来の企業スポーツと何ら変わりない現実を白日の下にさらす出来事であった。

  • 会社の業績不振によりダイエー女子バレー部が廃部。Vリーグ初のプロクラブ「オレンジアタッカーズ」に衣替えされることに。

  • これまで首都東京にJリーグのクラブが存在しなかったが、「FC東京」が調布市を本拠地にJリーグ入りすることが決定。

1999年 各競技の国内リーグが存続の危機に

女子サッカーリーグ『Lリーグ』三連覇を果たした日興証券が廃部。そのほか相次ぐ所属クラブの消滅でリーグ自体が立ち行かなくなるおそれも出てきた。
6チームだけで運営されるアイスホッケー日本リーグも古河電工の廃部が決まり、こちらもリーグ存続の危機に立たされる。

  • Jリーグが二部体制になる。地域密着のためには全国にクラブがある必要があり、二部制によってクラブの増加が期待される。

  • 横浜フリューゲルスのサポーターが市民クラブである横浜FCを立ち上げる。親会社の意向でつぶされた横浜Fの反省から、ソシオが運営に関与する形態をとることに。

2000年 ”東洋の魔女”ユニチカから東レに移管

女子バレーの名門ユニチカも時代の流れに抗えず廃部に。しかし同業種である東レに移管されることになり、完全消滅は免れることになった。
多くの企業チームが救いの手を差し伸べる者もなく消えていく運命にある中、移管先企業が見つかったことは東洋の魔女のブランドによるものだった。

  • 企業の不祥事の犠牲に・・・。食中毒問題を起こした雪印が歴史あるアイスホッケー部の廃部を決定。

  • ヴェルディが本拠地を川崎から東京に変更することが承認される。ホームタウンの移転は認めない方針であったJリーグは理念を覆す格好に。

2001年 男女の名門バレー、対照的な結末に

男子の新日鉄はプロ化し、堺ブレイザーズとなる。企業頼み一辺倒を改めて、地域との共生を目指すことになる。
一方、女子の日立は廃部。日立バレー部は発起人であり長年監督を務めた山田重雄氏が独特の手法で強化しており、日立にとってバレー部は山田氏のものであり、守るべき対象ではなかったのか。

  • 企業の論理に左右されないクラブを理想に設立された横浜FCだが、クラブとソシオとの間で対立が起き、ソシオ制度は廃止される。

  • 前年に運営会社が倒産したアイスホッケーの『日光アイスバックス』が新運営会社のもと再出発。設立に尽力した高橋健二社長は激務が祟り翌年逝去。彼が命と引き換えに残したバックスは今も栃木県民に愛されている。

2002年 湘南ベルマーレがNPO法人設立

資金難に苦しむ湘南ベルマーレだが、あえて地域貢献に力を注ぐ姿勢を見せる。NPO法人『湘南ベルマーレスポーツクラブ』を立ち上げ、ビーチバレーやトライアスロンなどのチーム創設、市民を対象にした健康作り教室を開く。
スポーツ・クラブが地域住民に与えられるものは、勝負の勝ち負けだけに非ず。幸福で健康な日常をも与えることができると信じて、今日も彼らは活動を続けている。

  • 廃部が決定したいすゞ野球部が意地を見せて最後の都市対抗野球に優勝。選手は非情な現実にもめげず、「社員を勇気づけたい」を合言葉に戦い抜いた。

  • 富士フイルムが業績が悪いわけでもないのにバレー部の廃部を発表。かつてバレーを社技とまで言っていたのだが・・・

2003年 ラグビーのトップリーグが開幕

主要スポーツの中でも珍しく全国リーグが無かったラグビーが全国リーグを創設。プロ化したサッカーとは異なり、従来の企業スポーツの枠組みからは逸脱しない。
名門企業チームの廃部が相次ぐ他スポーツに比べれば被害は最小限に食い止めているラグビー界ではあるが、強豪チーム同士の対戦を増やすべく抜本的な改革に乗り出した。

  • アルビレックス新潟の入場者数が二部所属ながら、Jリーグトップに。地方クラブの希望の星となる。

  • 野茂英雄氏が相次ぐ企業チームの廃部を憂い、自費でクラブチーム『NOMOベースボールクラブ』を設立。 

2004年 球界再編問題

パリーグの人気低迷を受けて、球団オーナーが球団数を減らして一リーグ制へ移行する構想を明らかにし、選手とファンが猛反発。
結果として、近鉄がオリックスに吸収合併され、楽天が新規加盟。二リーグ制は維持されることになったが、近鉄バファローズを救うことはできず。

  • バスケのプロクラブである新潟とさいたまが、企業チーム主体のアマリーグから脱退を表明し、プロリーグを立ち上げることを決定。

  • アイスホッケーの日本リーグが閉幕。日本のチームが4チームに減ったため。同時平行で開催されたいたアジアの他国のチームを加えたアジアリーグに一本化されることになった。

2005年 バスケ初のプロリーグ『bjリーグ』開幕

一向にプロ化できない日本リーグ機構(JBL)から脱退したクラブが、独自のプロリーグを結成。
これにより、バスケ界は、Jリーグのようなピラミッド構造ではなく、従来のアマチュアリーグとプロリーグが並立に存在する前代未聞の事態に陥る。選手からは一本化を望む声が聞かれることに。

  • こちらはもう一つのプロリーグの物語。プロ野球の独立リーグ国内第一号として四国アイランドリーグが開幕。様々な地域で生まれる独立リーグの先駆けである。

  • バレーやバスケなど複数の団体球技の国内トップリーグが日本トップリーグ連携機構(JTL)を設立。異なる競技が協力し合ってファンやスポンサーを集めるために組織された。

2006年 岡山シーガルズ誕生

Vリーグ唯一の市民クラブであるシーガルズが名称変更し、岡山シーガルズとなる。単独の企業に頼ることなく、地元企業と地元住民の支援により成り立つクラブとして設立。
発足地は富山県であったが、国体に向けて岡山県が招致。今回、はれてクラブ名にも岡山が冠されることになる。

  • 廃部したチームに所属していたベテラン選手を集めて4年連続日本一に輝いたバスケのアイシン・シーホースの物語がコミック化。

  • 選手の多くが看護師として働いている異色の病院チーム「大分三好ヴァイセアドラー」がVリーグに参戦する。

2007年 Fリーグ開幕

フットサルの全国リーグである『Fリーグ』が初年度は全8クラブで開幕。アマチュアリーグであるが、クラブ名に企業名は入らない地域密着型リーグとなる。
プロクラブは、名古屋オーシャンズの一クラブのみ。特許が消滅した後発医薬品を安価で流通させて、業績を急拡大させた大洋薬品が運営。生み出した利益を社会に還元させたいとし、フットサルに目を向けたのだった。

  • 女子サッカーに救世主!INACレオネッサが、選手の雇用形態を見直し、日中に選手が練習時間をもてるようにした。

  • バスケのオーエスジーが日本リーグから脱退し、bjリーグへ転籍することが決定。浜松・東三河フェニックスに改称される。

2008年 田臥勇太が栃木に加入

バスケ日本リーグのリンク栃木ブレックスに日本人初のNBAプレイヤーの田臥勇太が加入することが決まった。
まだできて数年のプロクラブが日本の宝ともいえる選手を獲得したことを機に、一気にファンやスポンサーを増やしていくことになる。

  • 翌年から始まる関西独立リーグの球団からドラフト指名を受け、現役女子高生の吉田えりが日本初の女子プロ野球選手となる。

  • ハンドボール王国と呼ばれる沖縄で、クラブチームの琉球コラソンが日本リーグに初参戦する。

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