見出し画像

徳川家康さま☘️をたどる#19#20増刊号(たぶん😂)☘️ 三河一向一揆の背景・経緯・惣国領主とは❓

初筆 2023年 1月 27日 / 加筆修正 未
この記事は有料ですが、
今とこは実質最後まで無料で読めます🤗
有料部分の文章は
「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ☺️✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。

スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#19
⬇️
https://stand.fm/episodes/63d5c351a47a268b9e1677d8

スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#20
⬇️
https://stand.fm/episodes/63dc9f0915041fa66860dad6

1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。


参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著


2 前回からのつなぎ

前回は家康さまこのころトピックス2点

  • 妻子(築山殿と信康さま)を取り戻したっ❗️

  • 実名を元康から家康へっ❗️

を話しました。

また三河一向一揆を招いてしまった原因は
三河内乱の戦線の膠着化・長期化で
家康さま家臣団や地域の方々が

  • ジリ貧になり

  • 資金・食糧・兵役の調達も厳しくなり

  • 気持ちも疲弊

それらのために徐々に一向一揆が起きる雰囲気が
形成されていったということも話しました。

今回は話す内容をワンセンテンスでまとめます。
三河一向一揆と松平家によるその平定とは
一向宗と松平家の権力の取り合いだったのです。

⬇️前回記事はこちら


3 ところで一向一揆、他の仏教宗派と比べてなぜ盛んなの❓


主として農民が重税やキツイ兵役に耐えかねて
起こす一揆が土一揆、そして、
一向一揆は一揆を起こす被支配階層が
「一向宗」の僧侶に率いられていた
つまり親鸞を開祖とする浄土真宗の一派
浄土真宗本願寺派が一揆の指導をしたものです。

加賀の一向一揆などはそのエリアの武士を駆逐し
浄土真宗本願寺派が数年に渡って、加賀一帯を
支配していました。

ここで疑問湧きません❓
戦国時代は旧仏教(天台宗・真言宗)と
鎌倉仏教が入り乱れてさまざまな仏教が
共存してたのになぜ浄土真宗本願寺派だけが
加賀一国を支配したり、家康さまの三河でも
1年近く家康さまを苦しめることができたのか、
なぜそのような勢いを持てたのか

原因は本願寺派第8代法主の蓮如はんが
エロ坊主やったからですっ❗️❗️🤣🤣
詳しく説明します

蓮如さんが、
本願寺派第8代法主をお継ぎになられたころの本願寺は
参拝者も呆れて帰ってしまうほど荒れ寺だったそうです💦
ところが蓮如さん法主となり
一気に信徒数が急増し・勢力を急速に拡大
蓮如さんは何をしたのか❓

もちろん蓮如さんが
宗徒をたばねる才をお待ちだったのでしょう。
しかしそれだけでは一気に宗徒を増やしたりはできません。
ではほんまに何をしたのか❓

ぶっちゃけ言うと夜な夜な女性の元へ
足を運び、手を携え、いろいろ繋ぎ🤣
生涯に、男子13人・女子14人の合計27人もの
子供をもうけた。
夫人も「腹の空く間もなく」出産リピで早逝が多く、
最終的には5人の女性を嫁はんとした、って🤣
この子供たちの人数が本願寺躍進の直接原因❗️

男子は他の寺院へ養子として、
成人したらその寺院を本願寺系列の末寺として
支配下に置く。
女子なら室町幕府関係者と縁組し
幕府内に本願寺を急拡大させ
幕府の支援を生かして勢力拡大

具体的にに、というか、生々しく、というか
まさしく子は宝物ですね❗️
今の日本人もがんばれ❗️❗️🤣🤣

4 三河一向一揆の寺内町の様子など

一向宗は地域に根付き地域に勢力を伸ばす
とは具体的にはどういうことか。

金龍静さまの講演会「一向一揆と本證寺寺内町」参考にしました。

一向宗が勢力を伸ばすというのは
地域の治安、権利や義務の保証
今ならたぶん国家がやるであろうことを
その地域はお寺さんがやるゆうことです。
一向宗はその歴史の中で1560年ころまでに
そういったノウハウを蓄積していた、ということ。

そうなんです。三河一向一揆は政治的な
見地からではなく、社会的な見地から
あるいは庶民の見地から考察しないと
見えてこないことがあるのです。

この時代にも市場というものがありました。
しかしこのころの日本のあらかたの地域では
それは月に2〜3回しか開催されませんでした。
それはその地域の統治する者が長村に出向き
警備ができる日が月にそれくらいしか
取ることができなかったからです。

ところが一向宗は寺内町を形成、
高い土塀で囲まれた土地内に
お寺さんを中心とした町を築き、
ある程度の武装をし、
そのエリア内で毎日、市を開けられる
安全性を保証しました。
またそのために起こるさまざまな
権利や義務を保証し、そうすると
経済が発展しその過程で発生する
金融業貸し借りの保証や裁きまで
するようになったようです。
もちろん地域の人々は何らかの形
たぶんお布施かな?(知らんけど😂)
で年貢に代わる上納を行ってました。

これってあれやん❓
本来その土地の領主がすべきことやん❓

この時代、1560年ごろは西三河は一向宗が
非常に盛んな地域で、浄土真宗本願寺派(一向宗)
にとっては「モデルエリア」的な
扱いでもあったそうです。
地域の町人・商人だけでなく
農民や兵農分離してない時代なので
下級武士たちや場合によっては
松平家重鎮も一向宗寺内町の
お世話になるという、西三河は
特殊なエリアだったそうです。

三河一向一揆が勃発した背景には
そういった地方の特殊な性格もありました。


5 三河一向一揆平定

家康さまは、起こってしまったものは
仕方がないと平定にかかります。
ここで大きく端折りますが平定なさいました
(端折りすぎ❓😂)

一向一揆の平定の経緯です。
三河物語には戦闘の様子がかなり詳しく書かれてます。
がゼンブ話してられないので、ざっくりストーリーです🙇

合戦は大久保一族が守る上和田砦への
一揆勢による攻撃から始まり、
激戦となり家康さまが駆けつけることで
一揆勢退却が2度。
深溝城松平伊忠が一揆勢に加わっていた
六栗城の夏目広次を攻略。
家康さま針崎勝髪寺をと激戦。

そうこうするうちにまた出ました❗️水野信元さんが
和睦を薦めて実際に仲介、
水野信元さまは織田信長さまの
指令を受けて和睦させに来たと思われます。
そういう推測ができるのは
織田信長さまはハナから町の運営は敏感で
さっさと楽市楽座制度を確立し
庶民をきっちり経済的に掌握していました。
「コラ❗️三河の弟、なにそんなとこでコケてんねん❓❗️」
ゆうようなもんですなぁ。
それを水野信元さまに託したのでは❓と思われます。

和睦後、家康さまや松平家臣団は

  • 売買・貸借での土地や米銭を保証するのか

  • あるいは徳政により破却させるのか

この選択を地域ごとに別途考慮、
また時間を切って、徳政か、元本返済か、
利子返済スタートをずらすとか、を
松平家、手動で裁いていきました。
つまり、地域の安全と契約の保証は
松平家管理の元に行われるようになりました。
実際、三河一向一揆の終焉した永禄7年・1564年2月ころは
家康さまが発行した地行詳細書き・各種安堵書・禁制書が
さまざまな一次史料として方々から発見されてます。
実際、西三河ぐるりは納得したようです。
また三河一向一揆に加担した多くの家臣も
元の松平家臣団に戻ることになりました。
これは出戻り家臣には厳しい処罰を与えなかった
家康さまの善政というより、このとき「許すことの効果」を
学んだんだと思います😀


ここに松平家康さまはようやく西三河の
惣国領主となりえた
のです。


6 家康さまが三河一向一揆平定を通して学んだこと

松平家は三河一向一揆前は岡崎の地方豪族に過ぎず
三河の惣国領主とは武家間だけの話であって
(家康さまが言うてるだけ😂)
地域のすべての庶民に安堵と保証を与える代わりに
租税を徴収するという基本的な国家の仕組みを
作っていくことが大切。
そしてそうしていくとき、庶民をある程度
大切にしていくことが肝要ということを
家康さまこのときやっと学んだのでしょう。

そして、その仕組みが行き届いた西三河一帯は
家康さまにとって平和な城下町の原風景
たりえたのです。

7 離脱した家臣・一向宗寺社の処置・没落した豪族

具体的な戦後処理うち政治的なところ

まず一向一揆勢の砦となっていた

  • 土呂本宗寺

  • 野寺本證寺

  • 佐々木上宮寺

  • 針崎勝髪寺

には「昔に戻せ」という和睦での取り決めがあったが
その後、家康さまが宗旨替えを求め、それに応じないことが
わかった時点で、昔に返す、つまり寺社が建立される前の
状態に原っぱに戻す=破却ということになりました。
このころよりタヌキオヤジ発動❗️😂

離脱した家臣のうち、のちに出戻りして
家康さまのブレーンの1人となった
本田正信さまがいます。

そして没落・従属した豪族は以下です。

  • 桜井・松平家次→没落

  • 東条・吉良義昭→没落

  • 幡豆・小笠原氏→従属

  • 大給・松平氏→従属


8 次回


ようやく西三河平定した家康さま。
さらに今川方に支配されている東三河を平定。
全三河を統治下に収め、惣国領主たりえた
松平蔵人家康さま❗️

そのプロセスの中で松平家臣団は
とある発展を見せます。それは何か❓❗️

そしてついに
徳川三河守家康さま爆誕❗️
どうやって❓❗️


ここから先は

19字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?