徳川家康さま☘️をたどる#41☘️甲州騒乱1
初筆 2023年 7月 1日 / 加筆修正 未
この記事は有料ですが、今とこは
実質最後まで無料で読めます🤗
有料部分の文章は
「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ☺️✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。
スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#41
⬇️
https://stand.fm/episodes/64a14353f31731fc1a642f0e
1 コンセプト
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著
信長公記 / 太田牛一さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
家康さま3大危機のうち伊賀越えは、家康さまに何らミスはないのに、信長さまご落命でいきなりピンチに陥った🤣❗️
なぜ伊賀越えと呼ばれるかと言うと、信長さまは伊賀攻めで徹底的に伊賀衆を弾圧したため織田家を怨むものが多く、織田家のご一門衆扱いの家康さまは伊賀国通過が1番難関であったから
家康さまはかつて頼られた伊賀者に手厚く対応。それが伊賀越えができた
また廻船問屋・角屋七郎二郎秀持さまの手助けにも後年、感謝を形にしている
前回はこちら
⬇️
3 家康さま信長さまの弔い合戦に赴く
1582年・天正10年6月2日、織田信長さまが本能寺にて
ご落命なさり、必死の思いで伊賀越えから自国領にお戻りの
家康さまは、信長さまの弔い合戦に赴くべく、
尾張清洲城に逃れていた信長さまのお孫さまの
三法師さま・のちの織田秀信さまを擁して
明智光秀さまを討つべく、出陣
1582年・天正10年6月14日には尾張国鳴海へ到着。
これ桶狭間の近所ですね。
家康さま感慨深いものがあったのではと思います。
しかし、羽柴秀吉さまは、中国地方で
毛利攻めをいったん停戦し、中国大返しから、
羽柴軍は、織田家家臣の中ではいち早く畿内に帰還、
6月12日には、畿内にあった信長さまの3男、
織田信孝さまを形式上の総大将とし、
山城・摂津の境の、つまり、今の京都府・大阪府の境の
山崎にて、明智光秀さまと戦をし破ってます。
家康さまが鳴海到着、つまり、尾張国のいちばん東側に
到着したのが6月14日、すでにこのとき、明智光秀さまは
敗戦し、畿内は織田信孝さまを総大将とし、
羽柴秀吉さまを参謀とした軍に制圧され
畿内が落ち着く方向に向かいつつありました。
その情報は6月15日には家康さまの耳に入り、
しかし、家康さまは思うところあったのでしょう、
6月17日には津島・今の愛知県津島市、
尾張国を縦断し、ほとんど岐阜県の手前まで
進軍していました。
しかしここで、織田家宿老という立場からの
羽柴秀吉さまからの事実上の撤退命令が出され
家康さまは自国領に帰陣なさいました。
まず、秀吉さまが明智勢をいち早く破り
さらに畿内を安定に導けたのは
信長さま死去の情報ををいち早くキャッチ
弔い合戦を自軍で行うことを決断、そのプランと手配を早急に行えた
手配としては戦闘中の毛利家との和睦を行う
全軍がより最短日数で機内へ戻ることができるような、移動手段と兵糧の確保
畿内にいる、もともとは織田家の譜代ではなかった勢力を味方につける
そのための手段の1つとして「信長さまは生きている」という情報を流布
運良く畿内に詰めていた織田家のご一門衆のお一人、信長さまの三男・信孝さまをつかまえることができた。つまり内外に「信長さま弔い合戦である」という名目・大義名分を宣伝しながら合戦に挑めた
これらのやり口には、秀吉さまは今後のことを考えながら
つまり、もしかして日本を取りまとめられるのは
わししかおらんのでは❓と思いながらの行動というのが
よくわかります。特にわかるのは
織田家家臣の誰よりも早く、弔い合戦を行う、
そのためにはどんな手段を使ってもいい、
たとえば毛利家との和議などは秀吉さまの独断ですが、
信長さまはもういないのだから、目的、つまり
いち早く畿内に戻れるための方法を選んだのです。
日本をまとめられるのはワシしかおらん、というのは
織田家重臣の中にあって、臣下の仲間をずっとみてきてのご判断。
たぶん日本をまとめられる織田家家臣は秀吉さまの他には
明智光秀さまだけだったのでは、と考えられます。
その光秀さまの反乱なのだから織田家の中では実質、
戦争後の政治経済まで念頭に置いて、弔いできる人は
自分しかいないだろうと。
また織田家ご一門衆の中で、信長さまの弟や
ご子息の中にも頼りになる人はいなかったのだろうと
後の歴史を見ればわかりまう。
織田家の中で動いてきた秀吉さまは
山崎合戦時には織田家内、人事関係はすべて掌握なさってたと
考えられます。
そんなときに信長さま弔い合戦に赴く2番手が現れた
それが家康さまでした。
家康さまはこのときでも天下を取ろうなどとは
お考えになってないと思います。
家康さまはこの時点では、駿河・遠江・三河という
3国を治めてようやく安定してきたころ。
家康さまが弔い合戦に出ようとした意図について
いろいろな説がありますが、どうしたかったのか
を記されている資料はありません。
ただ京へ登る道に点在する諸将に対して
信長さま弔いの援軍依頼をする書簡はあるので
信長さま弔い合戦をしよう、ということだけは事実かと推測できます。
秀吉さまが家康さまに撤退命令を出したのは
その後、秀吉さまと同じように、弔いをスグに行った
という印象を家康さまに与えたくなかったからだと考えられます。
秀吉さまは織田家家臣、それに対して家康さまは
家臣状態ではありますがご一門衆。
秀吉さまと家康さまが政情安定のために働いたという点で
横並び評価になってしまうと秀吉さまの目的からすると
ご都合悪いかと思います。
まあ家康さま、そこまで考えてなかったのだろうとは
思いますけどね😂
4 天正壬午の乱〜甲州騒乱スタート💦
甲斐国・信濃国が織田家の領国になったのは
1582年・天正10年の3月ごろ、本能寺の変たかだか3ヶ月前。
武田家滅亡で織田家の重臣がそれぞれの国に代官として
派遣され統治が始まったばかりでした。
それぞれの国の地元の国衆は織田家代官の統治力を
様子見している状態だったかと考えられます。
誰がどこに配置されていたのかを一覧にします。
駿河・静岡県東部:家康さま
駿河と遠江に食い込んだ部分・静岡県中部:穴山梅雪さま
甲斐・山梨県と諏訪・長野県の真ん中辺:川尻秀隆さま
伊那・長野県南部:毛利長秀さま
木曽など・長野県西部:木曾義昌さま
信濃うち川中島4郡・長野県北部:森長可さま
上野(こうづけ)群馬県と面する長野県一部:滝川一益さま
これらの国々では信長さま本能寺にてご落命の情報が
地元国衆に入るや否や、同時に国衆による一揆が始まります。
織田家家臣が代官として治めているのであって
代官はその地方に根付いた有力大名ではなく
信長さまがいないのなら従う必要もないと
支配されて間もないの地元国衆は思っているのは当然。
そりゃよそ者追い出せ、の一揆も起こります。
一揆が行われなかったエリアとその理由は以下です。
家康さまの駿河・遠江・三河、家康さまは代官ではなくて時間をかけてゆっくりと統治してきた国々だったから。駿河は統治して日も浅いが、家康さまのお名前は今川義元さまの時代から浸透はしていた
穴山梅雪さまは本能寺の変勃発後、帰国途中で一揆に遭いご落命なさってますが、領国が家康さまの領国に食い込んでのエリアだったため、穴山家を存続させるために家康さまが旧武田家臣の岡部正綱さまを穴山領にまだ幼少の後継の後見として派遣。これによって穴山家は実質、徳川家家臣となりました。家康さまうまいことやりおるわい😂せやけどこれが今風に言うたらWinWin関係いうんちゃいますやろか❓
木曾義昌さまの長野県西部は家康さまと同じく、もともと義昌さま自身が国衆から上がった大名、何事も起こりませんでした。そして引き続き、織田信孝さまからの保護を約束されてます。
そして織田家から派遣されていた、
川尻秀隆さま・主に甲斐・諏訪
毛利長秀さま・主に伊那
森長可さま・川中島4郡
滝川一益さま・主に上野
はいずれも地元国衆により痛い目に遭わされました。
この甲斐国、長野県の各国、群馬県で織田家に対しての
一揆・反乱またそれに便乗した周辺の国々の侵攻を
天正壬午の乱といいます。
これに対して、弔い合戦から帰国した家康さまは
天正壬午の乱の平定の了承を織田権力に取りつけます❗️
お❗️
家康さまちょっとは自分でやる気になってきたんか❓❗️
5 次回
畿内はもう放置❗️
信濃・甲斐を平定しよう、というのは、
かつて勝頼さまが遠江を脅かした、そんな状況が
2度と起こらないように、と隣国平定に向かう家康さま❗️
甲斐・信濃を平定できるのか❓
それらの国衆を味方につけられるのか❓
天正壬午の乱は収められるのかっ❓
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?