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ほんとうのもの──イデアへの希求

椎名麟三は、獄中で「ほんとう」を求めて、徹底して問い直したのだという。その結果、彼の見出したものは政治的信条ではなく、信仰であった。目の前にある現実が不十分でいかがわしく、うそうそしいものと見えるとき、人はほんとうのものを求めようとする。信ずべき確実なすがたをもった真実を求めようとするのである。
ほんとう」に向かおうとする思いは、眼前の現実をこえたイデアへの希求に通じる。すなわち、それは目には見えないものを見ようとする精神の動きであり、つねに現実との離反や齟齬をきたすおそれを秘めているのだ。

イデアとしての「ほんとうの三角形」とは、位置だけがあって面積を持たぬ〈点〉と、位置の移動だけがあって幅を持たぬ〈線〉とによって作られる、決して描くことのできない〈形〉である。それは、厳密な幾何学的な定義ではあっても、現実には存在せず、目に見えないものなのだ。
我々の生は、はたして、そうした現実を超えたものを求めんとしてあるものなのか。
イデアとは、究極の世界にある絶対的なものであり、すなわち、平凡な世界から見れば、別次元の完全なる存在、通常ではない何か、異常なものともいえるのだ。

《私は……悪魔めいたものへ対立する平凡さへ、それとたたかい得る光と熱を与えてやりたいと願っている。個人的なものであれ、杜会的なものであれ、異常なものは、もうごめんだ。そして私は、そのことを訴えようと思ってこの手記を書いたのだ。》

椎名麟三『美しい女』の末尾である。「ほんとうのもの」を切に求めた椎名がここで描こうとしたのは、「ほんとうのもの」をふりかざす「悪魔めいたもの」の力であり、それに対する抗議である。

私鉄労働者たちを前にして、労働組合を組織しようとして外部から来たオルグは、
「あなた方労働者の前には、自由か死かという問題しかないんですよ! それがわからないなんて……実際、日本の労働者には、あなたのように、暖味で臆病で卑屈な奴隷根性のものが多すぎる。あなたがたを解放する革命をおくらせているのは、実はあなたのような人々なんですよ……ぼくなんかは、この運動に死を賭けているんですよ! 死んでもいいと思ってるんですよ!」と迫る。
 それを聞いた主人公・末男は、「何か現実的でないような気がしまんのや」と言い、「おれはほんまにきらいなんや、あの、何とかか死か、というようなやつは。あんなのん、生活を知らんやつがいうことやおまへんか」と述べるのだ。
末男は「何かの絶対権をもった時代の権力者となる」、すなわち、正しいことを絶対として掲げるような姿勢を嫌うのである。

《私は妻にこのような絶対主義のもつような過度を許してはならないと思っていたのである。何故なら人間らしい人間でありたいと思っている私には、過度というものに於て、人間がそのいい意図にかかわらず人問性を超えて悪魔の顔になるのがわかるからで、この世のなかには、唯一絶対の、だからほんとうのものなんかありはしないということである。》

現世的な価値や権威を求めようとする妻の生き方にまで「悪魔的なもの」を見ようとする主人公の姿勢は、あまりにも極端で、それこそ彼の嫌う「非人間的」な追求とも見えてくるのだが、椎名の「ほんとう」をめぐる徹底した思索は、みずからの徹底性に対しても異を唱えるに至ったのだ、といえるだろう。その先には当然、生と死、そして信仰の問題が現れてくる。

椎名は「「ホントウ」ということ」で、述べている。

《ホントウというのは、死と関係があるのであります。しかしまた死というものは、人間にとって絶対的なものであるという事実から、ホントウというものは、いつも人間にとって絶対的なものに関係しているということができるのであります。……「死んでも」は、ホントウにということであり、「死んでも愛している」ということは、ホントウに愛しているといおうとしているのであり、「死んでもはなれない」というのは、ホントウにはなれない、絶対にはなれないといおうとしているのであることは、もちろんであります。》

しかし、いまだに、我々は死ではない生の側にあるのだ。

《この世界には、ホントウのものなんていうものは、あり得ないのであります。》

ということは、人間は現世においてはホントウを得られぬままに、ついには死というホントウに至るものであり、この世においてホントウを絶対として唱えることには抗議しながらも、死の向こうにあるホントウへの希求、さらに信仰は手放さずにありうるのだ、ということになるのだろうか。

こうした堂々巡りのような、イデアと現実をめぐる思考と試行が、死に限られた我々の生の本来の在り方なのだと私は考える。それは固定し完成されるものというよりも、生とともに絶えず動いていくべき認識なのだと知ること、それはすなわち、椎名によれば、

《何かをホントウのホントウと思っている自分に、ホントウには賛成しないこと》であり、

《対立の一方の項が神聖化されているならば、他の項の神聖をも要求してやることが、ホントウというものに対するかかわり方だと思われるのであります。》(「人間の復権」)

となるのであろう。

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