人間生死、無一物、然りか。
ある方の、老後も学歴や権威に恋々とする人々への疑問と、人は結構「他愛なくて幼稚なもの」では、というコメントへの"反論"です。「自分は死ぬ時、一体、この世に何が残せるのか、自分に何が残っているのか」と書かれたのに対して。
<私見>
私は、「人は無一物で生まれ、死ぬ」ということは、逆に、死ぬその瞬間まで「人は様々なものを持っている」ということでもある、と思います。
家族然り、資産然り、地位然り、経歴然りです。中でも経歴は、その人自身の生の軌跡を表すものであり、その一部の学歴にこだわるのも又もっとも、と理解することもできますね。
そうした人間による自身の<生の軌跡>への執着は、見方によればたしかに、他愛ない幼稚なものといえるでしょうが、そうであるならば又、学歴や権威、地位など以外の、家族、交友、愛情、信頼等々の獲得に安んじることも、同様に、「他愛なく幼稚」と見るべきだ、とはならないでしょうか。
要は、何により価値を置くか、ということとなり、人は皆同じであり、ステータスや功績より、家族や友人の方が絶対に価値があるはずだ、と決めつけることはできないのではないか、と思います。
「この世に何が残せるのか」とは、まさに「この世で何をしてきたのか」ということであり、自分が頑張ってこの地位を得た、この功績を果たした、こんな家族と友を得た、等々のことがみな相当し、結局、それは「無一物で死ぬ」という覚悟とは別物なのでは、と考えます。すなわち、「無一物で死ぬ」のだから生きている間も「価値にはこだわるな」ともいえるし、又、だからこそ「生きている間だけは価値を追求せよ、学歴や経歴を誇りとして頑張ってよいのだ」ともなると思います。
つまり、「無一物で死ぬ」という断言自体が、物や経歴へのこだわりの強さを表してもいるのでは、と感じてしまうのです。
故に私は、「無一物で死ぬ」というよりは「人はただ死ぬ」のであり、「無一物か否か、又何を残したのか否か、等は別事」では、と考えています。
「死ねば死に切り、自然は水際立っている」(高村光太郎)などと呟きながら。
(無論、この詩人の断言にも、強烈な執着、こだわり=生の欲動有り、と思いつつ)
妄言多謝。