「つつましい」努力
《自分が相手とともにいて孤独だと思うときは、相手も孤独なのだと、なぜそう考える余裕をもたないか。それこそ、真の意味の「理解」ということでありましょう。》
──福田恆存
はっとさせる言葉である。
我々の感性は己れの心身を拠点として自他へと向けられ、また、周囲からの絶え間ない刺激に反応し続ける。
我々にとって世界は、ただあるのではなく、快であれ不快であれ、我々の感受によって立ち現れ、また忌避され、見過ごされるものとして、その場その場における関係のあり様として動いてあるのだ。
他者もまた然りである。
我々がいかに相手、すなわち他者を知らぬか、あるいは、知るがゆえに正対を避けているか、そして、己れが他者を理解していないということに、日頃何ら痛痒を感じずにあるか、ということが、福田の言葉と自らの体験を通して、あらためて身に染みて迫ってくる。
福田には次の言もある。
《私はつつましさ、羞恥心というものは最も日本的な美徳だと思っております。 》
これもまた心に響く言葉だが、私は、そこで「日本的な美徳」とする〈自己認識〉を伏せて、それを「人間の美徳」と置き換えて、言い直したいのだ。
それこそ、他者理解のためのささやかな「つつましさ」ではないか、と思うゆえである。
《生はかならず死によってのみ正当化される。個人は、全体を、それが自己を滅ぼすものであるがゆえに認めなければならない。それが劇というものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。》
という福田の言葉にも励ましがある。
他者の理解には限度があり、ましてや、世界の感受、理解にはとうてい及ばぬのだということに呆然とし、絶望するのではなく、寛容さと想像力を伴う交わりの努力、時には激しい争いともなる交流──家族、交友、恋愛、仕事、地域、国家、国際社会における対立と宥和、離反と接近、戦争と平和等々、その曲折の果てに訪れる個々人の終焉が、世界という全体と我々の個との関係を必ずや〈正当化〉してくれるのだと信ぜよ、と言うかのように。
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