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『嘔吐』を読む(13)──単独者ロカンタン、ロジェ医師とアシル氏、マルメラードフ

 さて、またもとに戻ろう。
 食堂で、孤立した小男のアシル氏に見つめられてロカンタンが気づまりになったところに、恰幅の良いロジェ医師が入ってくる。なれなれしくウェイトレスに声をかける、町の名士然とした男である。

《これこそ私が見事な男の顔と呼ぶものだ。人生と情熱にすり切れ、えぐられた顔だ。けれども医師は人生を理解し、情熱を克服したのである。》

 なかなかの名言である。ロカンタンは、まずは一矢を放つのだ。
 世馴れた医師の出現で、ウェイトレスは生き返り、アシル氏もほっとしたように医師の自信ありげな姿に引き付けられる。医師はアシル氏を見て「気がふれた爺さんだ」とまで言い放つのだが、アシル氏はそう言われても「卑屈に薄笑いを浮かべ」、むしろ「気持がなごみ、自分自身から守られているように」感じたというのだ。
 ロジェ医師はロカンタンはまっとうな若者だと見て、笑いかけて同意を求めるが、ロカンタンは応じない。医師はしばし「その瞳の恐ろしい砲火を浴びせる」が、すぐに若者の値踏みを終えて顔をそむけてしまう。

《立派な皺だ。それをみな備えている。額には横皺、目尻の小皺、口の両側には苦いたるみ、さらに顎の下には黄色い皮膚がいく筋ものロープのようにだらりと垂れ下がっている。これこそ運のいい男だ。どんなに遠くから見ても、誰もが考える、きっとこの人は苦しんだに違いない、これこそ人生経験の豊富な人だ、と。それに、彼はその顔にふさわしい。なぜなら自分の過去をどうやって保持し、どうやって利用するかという点について、一瞬も間違えなかったからだ。彼は単に過去を剝製にして、ご婦人たちや青年たちの役に立つ経験に作り上げたのである。》

 こうして、ロカンタンは彼を俗物と決めつけ、あれこれと観察し揶揄するのだ。それは、まんまと医師の勢いに引き寄せられてしまったアシル氏とは正反対である。

《アシル氏は幸福だ。これほどの幸福は長いあいだ感じたことがなかったに違いない。感嘆のあまり、口をぽかんと開けている。頰を膨らませて、ビルーをちびちびと飲む。そうなのだ! 医師はこの男の首根っこを押さえたのだ! いまにも発作を起こしかねない気がふれた爺さんなどに幻惑される医師ではない。鋭い叱責と、寸鉄人を刺す二、三の毒舌、これこそ必要なのだ。医師には経験がある。彼は経験のプロなのだ。医者、司祭、法曹、そして将校たちは、まるで自分で作ったかのように人間をよく知っている。》

 すなわち、ロカンタンはここで、卑屈な弱者と自信たっぷりな俗物の両者を標的として、矢を放とうとしているのである。

《私はアシル氏のために恥ずかしい。私たちは同じ世界の人間なのだから、やつらに対抗して結束すべきだったろう。けれどもアシル氏は私を捨てて、あちら側に行ってしまった。彼は本心から〈経験〉を信じているのだ。自分の経験でも、私の経験でもない。ロジェ医師の経験だ。少し前までアシル氏は妙な気分だった。自分がまったく独りぼっちであるような印象を感じていたのだ。今は、他にも似た者がいた、それも大勢いた、ということを知っている。というのも、ロジェ医師はその連中に会ったからだ。医師は彼ら一人ひとりの話をアシル氏に語って、それがどんなふうに終わったかを告げることもできるだろう。アシル氏自身も単にそうした一つの症例にすぎないし、容易にいくつかの共通概念に還元されるだろう。》

 みずから「単独者」l' homme seul たらんとするロカンタンは、同類たるべき弱者アシル氏が、俗物ロジェ医師の「経験」を頼りとし、自分もその「症例」の一つと見立てられることで安心しようとしている、と難ずるのである。アシル氏の心理は、われわれが医者にかかって診断を受ける時のそれとも似たものだが、ロカンタンはそれをあくまでも非難するのだ。

《どんなに私は彼に言ってやりたかったことだろう、きみは騙されている、勿体ぶった連中の思うつぼだぞ、と。経験のプロだって? 彼らは無気力にだらだらと半ば眠ったような暮らしをしながら、待ちきれなくなって唐突に結婚し、行き当たりばったりに子供を作ったのだ。カフェで、結婚式で、葬式で、他の人たちに出会った。ときどき渦に巻きこまれて、何がどうなったのかも分からずにあっぷあっぷした。彼らの周囲で起こったすべてのことは、彼らの目の届かないところで始まり、届かないところで終わった。長く形も定まらないさまざまな出来事が遠くからやって来て、さっと彼らを掠めて行ったが、目を凝らして見ようとしたときには、すべてがもう終わっていた。それから四十歳くらいになると、自分たちの些細なこだわりやいくつかのモットーに経験という名前を与えて、その自動販売機を作り始める。左の投入口に二スーを入れると、銀紙にくるまれた挿話が出てくる。右の投入口に二スーを入れると、やわらかいキャラメルのように歯にくっつく貴重な忠告を受けとる。》のだそうである。

 これは相当厳しいが、面白く、ユーモアたっぷりの傑作な俗物批判である。そして私は、いまや自分が、こうした鋭い若者の暴言を受ける場に立っていると感じるのだ。
 まさに「何がどうなったのかも分からずにあっぷあっぷし」て生きてきた身として、「周囲で起こったすべてのことは、彼らの目の届かないところで始まり、届かないところで終わった。長く形も定まらないさまざまな出来事が遠くからやって来て、さっと彼らを掠めて行ったが、目を凝らして見ようとしたときには、すべてがもう終わっていた」と言われれば──なるほど、然り。うまいことを言うもんだな、と感心してしまうのである。
 中年になって何とかやっと「経験」をもとに「自動販売機」とやらを作りあげ、「銀紙にくるまれた挿話」や「歯にくっつく忠告」も、左と右から出せるようになってきたのか、確かにそうかもしれないな、などと苦笑しながら。
 そして、たったそれだけのことも、自分にとっては何と大変な「経験」だったことか、とため息もつき、やっと何とかここまで来たか、などとほっとしてもしまうのである。
 しかし、そんな私でも、若い頃にはまったくこの若者と同様に、しゃあしゃあと生き延びてきた大人たちは欺瞞に満ちているはずだ、と考えていたのだから笑止である。
 すなわち、私にはこれほどすぐれた皮肉たっぷりの裁断はできずとも、ともすれば身近で、また教壇の上から、したり顔の忠告をしようとする大人たちは全く信じられなかったのだ。大学まで行ってしまった私がひたすら考えていたのは、大人どもには騙されまいぞ、まずは疑え、ということだった。
 その私が、それから「何がどうなったのかも分からずに」生き抜いたあげく、とうとう今日に至ったのである。
 しかし、ロカンタン君、君はどうなのだ、君ははたしてその後、欺瞞に満ちた「自動販売機作り」の人生などではない生き方ができたのか、と思わず聞きたくなるのである。作者サルトル氏のそれまでも含めて。
 むろん、私の予想では、そんな過激な若者でさえ、生きていく中では同様に「経験」という、安易に見えてかつまた異様なほどやっかいな材料に埋もれて、結局は何らかの思考の「機械」を作り上げるしかなかったのではないか、とも思うのだ。それが、多少なりと複雑で精巧なものだろうと、所詮同様ではないか、と。
 そんな今の私は、読みながら、ロカンタンに共感してロジェ氏にうんざりすることもでき、また逆に、ロカンタンにうんざりして、むしろロジェ氏に引かれることも、やすやすとできるのである。
 だが問題は、アシル氏である。卑屈な弱者の存在、その愚かしい動揺、惨めな降参ぶりをどう読むか。
 そこで私が思い浮かべるのはマルメラードフである。酒場で出会った若者相手に、「学生さん、どこにも行くあてがないということがわかりますか」という、あのもう一人の孤立者なのだ。それなら、分かるのである。
 すなわち、ここで私は同時に、ひとかどの俗物でもあり、また、小生意気な批判者でもあり、なおかつ、どこにも行くあてのない孤立者でもある自分を読もうとしているのだ。一体、どこに向かって……?

#サルトル #嘔吐 #ロカンタン #マルメラードフ #罪と罰

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