寄稿 『没後10年 今村昌平監督が遺してくれた挑発的言葉たち 序章』 初出:白山通信 特別号(2016年[平成28年]12月)
解説:日本映画大学が毎年発行している『白山通信』の『没後10年今村昌平監督特集』に寄稿した文章です。『過去講演 日本映画の巨匠たち 今村昌平 人と作品』で触れている項目「隣の小母さんにもドラマがある」の詳細版でもあります。
本 文
「今村昌平監督没後10年の寄稿」と云うと襟を正して仰々しく構えがちになるが、突き抜けた人間の生命力を描いた数々の革命的傑作を作り続け、しかも79歳で天寿を全うした今村監督だからこそ、「人間派」っぽく偲んでみたい。
時は1980年(昭和55年)。
場所は、都内を移動中の今村プロの監督車の中。(監督車と云ってもベンツやBMWなどではなく、日産ローレルなところが今村プロらしい(笑)。)運転席には二十代後半の私、細野辰興。助手席には「鬼のイマヘイ」こと天下の今村昌平監督。(助手席? と意外に思われる向きもあるかも知れないがロケハンで常に助手席に乗る習慣から来ている。)50代半ば、壮年期の「鬼のイマヘイ」である。しかも何故か、二人きり。かなり緊張しているワタシ。
どういう話の流れかは忘れたが、生硬で愚直な細野青年に老獪な手練れ今村監督がこんな言葉を投げかけて来た。
「ホソノ、お前はドラマと云うモノを特別なモノだと思っているだろう。」
いきなりの問いに、その意図も解らぬワタシはリアクションの仕様もなく。
「・・・え、えぇ」
「ドラマとは、お前が考えているような特別なモノではない。お前の家の隣の小母さんにだってドラマは有るんだッ。」
衝撃が走った。ズバリ当時の私が思っていたドラマとは、華やかな完成パーティー中の超高層ビルが大火災に成ったり、童歌に擬えて謎の連続猟奇殺人事件が起きたり、紀州藩のお家騒動に巻き込まれたり、野武士が村に攻めて来るのを浪人たちを雇って撃退したり、宇宙人が来襲したり、子供が誘拐されたり、速度が落ちるとスイッチが入る爆弾が新幹線に仕掛けられ止まることが出来なくなったり、原水爆実験により目覚めた大怪獣が東京を火の海にしたり、巨大豪華客船が津波により引っくり返ったり、と云った様な非日常的な事件ばかりだったからだ。
それなのに「隣の小母さんにもドラマがあるッ。」だァ?! 具体的に隣の小母さんの平凡な顔が浮かんで来て狼狽えた。動揺を隠せぬまま今村監督の次の言葉を期待した。しかし、それっきり次の言葉が発せられることはなかった。今村監督十八番の「奇襲挑発それっきり作戦」だ(笑)。
ともあれ、私の「隣の小母さんにも有るドラマとは?」との格闘は、そこから始まった。
それから35年。流石に現在は、ドラマと云うモノがどういうモノなのか、隣どころか向こう三軒両隣の小母さん、小父さんにもドラマが有ることもどうにか解かる様にはなったが、あの時の今村監督の挑発的言葉は未だに忘れることは出来ない。
他にも色々な挑発的言葉が蘇ってくる。今村監督と出逢い濃密に時間と空間を共に過ごさせて頂いた1976年(昭和51年)からの5年間、遺して頂いた言葉は数え切れないのだ。後年、私が監督に成ってからの監督作品への感想の中にも私にとっては至宝の言葉が幾つもある。それらの一つ一つが新作『貌斬り KAOKIRI~戯曲【スタニスラフスキー探偵団】より』に至る私の作品たちの血や肉の一部に成って来たことは間違いない。勿論、独り占めする気などサラサラなく機会を見つけてはゼミ生たちを始め彼方此方で話し続けてもいる。
妙な云い方になるかも知れないが、こうして今村監督とのことを反芻するのも「イマヘイ学校」の続きなのかも知れないと思ったりする。何故なら「イマヘイ学校」は、今村監督(若しくは其々の恩師)と卒業生との心と心の間に存在しているからだ。
故に器がどう変わろうとも「イマヘイ学校」は我々、卒業生の中に存在し続けて行くのだと確信している。
機会があったら亦、何処かで「鬼のイマヘイ」が遺してくれた挑発的な言葉の数々を私の青春の残滓と共に紹介してみたい、と思ったりしている鬼才・今村昌平監督没後10年の秋なのです。
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