【短編小説】メメント モリ 一章 違和感
あらすじとプロローグはこちら
地上七階建ての都内のビルの一角に十二坪ほどの面積のオフィスを構える『渡辺事務所』は今年で開業二十周年になる。オフィスはコンパクトではあるが、コンクリートが打ちっぱなしになった無機質な内装と、天然木のフローリングの温かさの対比が、小さな空間を際立てている。
この事務所の社長である渡辺叡治は、朝出勤すると、まずは壁一面の窓から眼下に見える大通りを眺めコーヒーを啜る。自然光が差し込むそのエリアでは、自分のデスクの他に、カスタムオーダーした木目の美しい長机を会議テーブルとして使用している。さらにその一帯をガラスパネルで間仕切りすることで、オフィス全体を明るく開放的に保ちながらも、プライベートな空間を実現させている。クライアントとの契約の際にも使用できるとして、渡辺はこの空間を気に入っている。
渡辺はオフィスに視線を移すと、携帯に手を伸ばした。今朝の新幹線で軽井沢から東京に戻ってくるはずの部下がまだ出勤していない。
「急いで育てようと焦り過ぎかなぁ──」
そう云いかけた時、渡辺の部下、神崎直人がオフィスの扉を開いた。
「おはようございます」
「おはよう、神崎君」
「おはよう、大変だったな神崎」
ガラス張りの間仕切りを背景に広い作業テーブルが置かれ、各自自由に仕事をしている、──と云っても二人しかいない。渡辺を入れれば計四名で動かしている小さな私立探偵事務所だ。
「神崎、疲れているだろうが、とりあえず報告頼む」
ガラス扉が押し開かれ、渡辺の大きな声が響いた。
「ああ見えて渡辺社長、神崎君のこと心配してたわよ」
こっそりと教えてくれるのは、この事務所では母親的存在の足立幸恵だ。幸恵は渡辺が起業した時からの仕事仲間であり、ここでは秘書的業務を担当している。直人は二人に軽く挨拶をすると奥のガラスルームの扉を閉めた。
「お疲れ様」
渡辺はそう云って椅子をすすめた。
「コーヒー飲む?」
「頂きます。ブラックで」
渡辺は優しく笑うと、自分のマグカップを軽く持ち上げガラスの向こうにいる幸恵に合図を送った。直人は椅子に座ると、夜中の病院に潜入し、山本一郎の遺体から残影にアクセスした詳細を上司に報告し始めた。
「特に異常は見られませんでした」
「山本夫人はいた?」
「はい、ですが夫人の証言通りでした。山本一郎の死因は一酸化炭素中毒であったのは間違いないと思います」
「うん」
「残影からは薪ストーブの排気口を確認できません。でも山本一郎が意識を失う直前に──」
──意識を失う直前? 直人は自分が発した言葉に一瞬違和感を感じたがその時、
「ああ! 幸恵さんありがとう!」
渡辺は直人を遮るように大きな声を上げると素早く目配りをした。直人はハッと我に返ると黙ってコーヒーが運ばれるのを待った。直人の特殊能力のことは、ここでは渡辺しか知らない。
「すみません、足立さん」
「お安い御用です。神崎君、ブラックでしょ? でもお砂糖とミルクも一応ここに置いておくわね」
幸恵は温かく微笑むと仕事に戻っていった。
「直人、お前は観察力が足らん。頭の後ろに第三の目でも付けておけ」
「──努力はしてます」
不貞腐れるように直人はコーヒーを口にした。眠気を覚ますために敢えてブラックにしたが、思ったよりも苦さが胃に刺ささり、思わずミルクを注ぎ入れてしまう。
「あははは! ほれ見ろ、幸恵さんの方がお前より観察力が高いじゃないか!」
渡辺が豪快に笑い飛ばすと、直人は苦虫をかみつぶしたような顔をしてコーヒーを啜った。
「それで」
「何をですか?」
直人は眉をひそめて聞き返した。
「話の途中だっただろう。意識を失う直前の話。お前は何かに気づいたはずだ」
渡辺は相手の些細な表情の変化も見逃さない。眼を精悍に光らせ、喰い付くように直人を正面から見据えた。流石この業界で二十年も生き抜いてきた男である。その気になれば会社の規模を拡大させ、社員を増やすことだって可能だっただろう。だが渡辺は「小さな事務所で十分だ」と云って事業展開を避けた。そんな上司相手に、所詮二十七年程度の人生経験しか持たない男の心理など見透かされて当然である。
直人は先ほど違和感を覚えた旨を上司に報告することにした。
「残影は山本一郎が意識を失った後に途切れましたが、今にして思うと寝落ちが急激すぎたように感じます」
「続けて」
「山本一郎は書斎でブランデーを嗜んでいましたが、大した量ではありません。それに酔っていた感覚はありませんでした。一酸化炭素中毒の初期症状かとも思いましたが、それにしてはストーブの火は勢いよく燃えていて……空気も煙で濁っていませんでした」
「ブランデーの件は警察から報告が上がってこなかったな……本人がボトルから注いでいたか?」
直人は首を振った。
「九時ごろ、夫人が就寝前に書斎に立ち寄り、グラスを手渡しました」
「若かくて驚いただろ?」
夫人のことを云っているのだと想像できたが、世の中にはいろんな組み合わせがいるから事件には関係のないことだと思えた。直人が押し黙っていると渡辺はそのまま続けた。
「実は睡眠薬が体内から検出されたんだよ」
直人は息を呑むと上司を睨んだ。前回もそうであった。この上司は肝心なことを隠す傾向にある。渡辺はいつも「トレーニングの一環だ」となだめるが、こうも毎回だと故意的に部下を虐めているとしか思えない。
「先入観があったら残影から公平に観察できないだろ?」
渡辺はニヤリと不敵な笑いを浮かべると顎を撫でた。白髪混じりの無精髭が自由人を演出しているが、しっかりと手入れされているのがわかる。仔細に渡って見れば五十五歳とは思えないほど引き締まっていて、眼には精悍な光を湛えている。きっと若い頃は女性にモテたのであろう。しかし私立探偵という職業柄は女を敬遠させる。実際に渡辺は離婚歴がある。
「それで保険会社絡みで調査でも頼まれたんですか?」
気を取り直し、今度は直人が渡辺に質問した。
「うーん、どうかなぁ」
何か含みを感じさせるような云い方だったが、直人はこれが〝否〟のような手ごたえであるのを知っている。仕方なくそのまま質問を続けることにした。
「不眠症で服用している線は?」
「あり得るね。検出されたのは医師の処方が必要なやつだから」
「長野警察は現在山本夫人に聞き込み中ですか?」
「だろうね。さて、どうする? この一件、向こうの捜査一課に任せれば一酸化炭素中毒による死亡で片付けられてお終い。それとも割り込んで邪魔してみるか?」
いきなりウチの上司がとんでもないことを云い出した。
「何云ってるんですか! 事務所の仕事じゃないでしょう!」
直人は思わず声を張り上げた。これは嫌な予感でしかない。だが嫌な予感ほどよく当たる──。
「知り合いからの依頼だ。諦めろ」
「私情絡みじゃないですか!」
「ああ、その通りだ!」
詫びるどころか、渡辺の眼には熱気が帯びていた。
「俺たちは保険会社から派遣された調査員という筋書で行く」
渡辺は挑戦的な笑いを浮かべると、勢いよく椅子から立ち上がった。
ここは私立探偵事務所だから警察のような権限はない。しかし渡辺事務所は表看板であり、渡辺叡治には何か別の顔があることを、ここ数年一緒に仕事をするようになってから直人は暗黙のうちに理解していた。
「俺は長野にトンボ帰りですか……」
直人は悲壮感を漂わせて上司を見上げた。今朝、軽井沢から帰ってきたばかりである。それに比べてこの人使いの荒い上司はエネルギーに満ち溢れている──。
「心配するな、この仕事が無事終わったら少しの休暇をやる」
直人は口を噤んだ。
「山本沙織との面談のアポはすでに取った。夫人はすでに弁護士を雇っているぞ」
そう云って颯爽とガラスルームを後にする上司は、改めて恐ろしい男だと思える。
直人はコーヒーを飲み干すと、急いで後を追った。
次章はこちら