【短編小説】メメント モリ 寄生体 ①
神崎直人は死んだ。つい三十分前のことである。
看護師は押していたストレッチャーを殺風景な部屋に押し込むと、取り出した書類に軽く目を通した。
「虫垂切除術は比較的安全な手術なのに」
先ほどの手術中に、突然患者が麻酔薬に過剰反応を引き起こし、医療チームが救命処置を行ったが虚しく、患者の心拍が回復しなかった場面が看護師の脳裏に浮かんだ。
「まだ二十三歳だというのに、悔やまれるわ」
看護師は白布が掛けられた遺体に視線を移した。
「信誠銀行副頭取の甥御さんだったとは……どうなることやら」
そう看護師が云った時、遺体の顔を覆っていた白布がはらりと落ちた。看護師は白い布を摘まむともう一度顔の上に掛けようとしたが、
「え?」
看護師と遺体の眼が合った。
白布は遺体の顔には掛けられず、そのまま看護師の手からこぼれ落ちた。
──僕は死んだのだろうか?
最後に直人が覚えているのは無影灯に映った自分の姿だったが、今、視界に入ってくるのは白とグレーのコントラストだ。
死亡したのならいつだろうか。昨日か今日か、記憶が定かではない。普通は死んだ記憶など覚えてる人などいない。いるなら死に損ねた人間ぐらいだ。
頭の方で女性の声が聞こえ、思考が遮られた。
──ああ、伯父さんが迎えに来るのか──
その時、白とグレーの視界から眩しいほどの光が差し込んだ。ゆっくりと目の前にいる女性の姿を捉えてみたが、見る見るうちにその女の表情が凍り付いていくのがわかった。
──まるで怪奇現象を目の当たりにしたような態度だ──
直人は声を出そうとしたが、喋ることができない。仕方なく目の周りの神経に意識を集中させると、ゆっくりと瞬きをしてみる。
「────── っ!」
とっさに手首を掴まれ、脈を確認されると、看護師は霊安室を飛び出し、大声で叫んだ。
「先生! 安藤先生! 脈があります!」
深夜の静まり返った廊下に女の叫び声だけが虚しく響く。看護師はポケットからトランシーバーを取り出し、急いで医師に連絡を入れた。
「安藤先生、先ほどのオペの最中に心拍停止した患者ですが、バイタルサインがあります。はい、大至急霊安室に来てください」
「どうしたの、何事?」
年配の看護師が叫び声を聞きつけて霊安室の様子を見に来た。
「患者が生き返ったんです!」
「ええっ!」
看護師たちの声が廊下に反響する。
「ふ、二人ともお静かにっ!」
ようやく外科医が息を切らしながら霊安室に到着した。安藤医師は素早く直人の脈を確認し、ペンライトの光を瞳孔に当てると、
「オペからどれくらい経っている?」
顔色を変えて看護師に聞いた。
「三十分くらいです」
「では急いでこの患者をオペ室に運んで」
年配の看護師が驚きを隠せない様子で安藤医師に目を遣った。
「安藤先生、私は長年看護師やってますけど、こんなケースは初めて見ました」
蒼白な額から流れ出る脂汗をハンカチで抑えながら安藤医師は淡々と応えた。
「ああ、僕もだよ。それよりも早く縫合しないとだ──」
こうして神崎直人は霊安室から手術室に直行する運びとなり、一度手術台の上で死んだものの、看護師の発見により奇跡的に生き返った。そして心拍が停止していた約三十分の間、直人の体に大きな変化が生じていたのだが、この時まだ誰も気づいてはいなかった。