【続編】メメント モリ II 24章 亡霊
まだ夜明け前だが、羽田空港第三ターミナルの出発ロビーには、すでに人が集まり始めている。渡辺は電子モニターでエールフランスのパリ行き便を確認すると、上階からロビーを見下ろすことにした。周囲に気を配ると、仮眠をとる旅行者や、床に寝転がる外国人の姿が見えるが、漂うコーヒーの香りが心地よくさせる。
四十分ぐらい経過した頃、遠くの方に長身の男の姿が見えた。一瞥しただけで目当ての人物だとわかる。乗客を装っているが、周囲に気を配るような油断のない仕草は無意識的に習慣になっているのだろう。
「俺と同類だな」
渡辺はピエールとは面識がなかったが、確信を持って下階のロビーへと向かった。
国際線のアナウンスが時々流れるが、一定の静けさを保ちながらロビーは整然としている。ピエールは、ファーストクラス専用のチェックインロビー付近で姿勢を崩さず立っている渡辺の方へ足を向けた。
「おはようございます、ミスター渡辺。お会いできて光栄です」
まだ完全に乾ききっていない長めのダークブロンドを無造作に束ね、優雅な雰囲気を身に着けているが、この男が曲者であることを渡辺は直感で感じとれる。昨夜、直人から報告を受けた時に確信したことがある。それを確かめるために、早朝五時から羽田空港の出発ロビーでピエールが現れるのを渡辺は待ち構えていた。
「なぜ直人に近づいた? スイスにいる亡霊からの命令か?」
鋭い光を湛えた眼がピエールを正面から見据える。
「まさか!」
ピエールは愉しそうに微笑むと、
「同じ能力者として自己紹介をしたまでです」
そう云うと、左腕に巻いた時計に視線を落とした。一瞬、ピエールの左の親指の付け根に何かが見えたが、渡辺はそのまま話を続けた。
「興味本位で近づくな。直人の能力のことを知っていたのか?」
「こんなところで立ち話もなんですから、一緒にラウンジへとお誘いしたいところですが」
「ファーストクラスのチケットを買えと?」
「フフフ、上の階はもう開店してますか?」
渡辺が四階から見下ろしていたことを見通したようにピエールが尋ねる。
「コーヒーぐらいなら上で飲めるが、長話をするつもりはない」
「マスターに伝言でしたら承ります」
そう云うと、ピエールはチェックインラウンジの上品な扉に眼を配り、
「まずはチェックインを済ませますので、後ほど」
微笑みを残したまま、扉の向こうに消えた。
「上手く直人を懐柔したようだな」
他の客とは距離をとるように一番遠くのテーブルについた。ガラス越しに下階のロビーが見渡せ、旅行客のチェックインの様子が伺える。
「あなたのことはマスターから色々とお聞きしております。頭脳明晰で行動力もある、そして──」
ピエールはエスプレッソの入ったカップを持ち上げると、
「要注意人物だとも」
不敵な笑いを浮かべたが、渡辺は鼻で笑って見せた。
「父はあなたを後継者に望んでいました。頭脳だけでなくフィジカル面でも優秀ですから……さぞかし無念だったことでしょう」
最後の方はピエールの独り言のようであった。
「そうか、お前はあの男の息子か……なんとなく面影があるな」
「父は十年前に退任しました」
ピエールは頷くと、表情を変えずに応えた。
「二十年前、俺は正しい選択をしたと今でも思っている。ただ友人を救えなかったのが心残りなだけだ」
「あなたの責任ではありません」
ピエールは正面に座る渡辺を見詰めると、
「人間は本能的な好奇心に逆らえないものです」
エスプレッソカップをテーブルに置いた。
状況や立場によっては、知識がない方が有益な場合もある。若かりし頃、親友と共に知識欲に駆られていた時があったが、二十年前、渡辺は家族を選んだ。だが、代償として裁判に巻き込まれ、実績を失い、結局は家族も離婚という形で失った。苦い経験だがその反面、物事をニュートラルな視点で見れるようになった。
黙り込む渡辺を観察していたピエールが、口を開いた。
「先ほどの質問ですが、直人君の能力のことをマスターはご存じではありません」
「当たり前だ。知っているのは俺と直人の伯父だけだ。もしお前たちが直人をリクルートするつもりなら、俺は全力で止める」
「そのつもりはありません。ただ、直人君にも提案しましたが、能力者同士、互いに協力するべきです」
「何を協力し合うんだ、お前の研究か? なぜ記憶の修復ではなく再構築なんだ?」
「アハハハ、流石ですね、ミスター渡辺」
愉しそうな声で笑うと、ピエールは応えた。
「世界を守り、平和に導くための価値ある研究だと……少なくとも彼らは本気でそう信じています。私はただその一部を任されているだけです」
「ならば、お前のマスターに伝えろ」
渡辺は眉を上げ、ピエールを正面から見据えた。
「社会の最小単位である家族さえも守れない男が、世界を守れるとでも思っているのかと」
まるで眩しい光を見るかのように、ピエールは眼を細めると、
「直人君が羨ましいです。私もあなたのような人が傍にいたのなら、違った人生を歩んでいたかもしれません──」
言葉が後切れた。
不意に渡辺はピエールの左手首を掴むと、先ほど一瞬だけ目にした左の親指の付け根を確認した。そこには小さな三ツ星のタトゥーが彫り込まれている。渡辺はピエールの手を離すと、
「何年前からその組織に入っている?」
「十六歳の時からです」
予想以上に長い時間だった。渡辺は押し黙ったが、ピエールは気にする様子もなく、
「一つ選択が違えば、あなたの部下は直人君ではなく私だったのですよ、ミスター渡辺。皮肉なものです」
そう云うと、椅子から立ち上がり、荷物をまとめ始めた。
「過去は変えられん。だから〝もしも〟というタイムラインを考えても仕方ない」
「哲学ですか? ミスター渡辺」
ピエールは身支度を終え、渡辺の方に向き直ると、
「今回の来日で、直人君と繋がるのも私の計画の一部でした。組織の計画ではありません。私の独断です。まさか大学で偶然出会うとは思ってもいませんでしたが……更には同じ能力者だったとは驚きです、フフフ」
愉しそうに笑うと、直人との出会いは能力者同士、引き寄せ合った結果であり〝必然〟だと結論付けた。
「では、伝言承りました。プライベートな連絡先は直人君に教えてありますので、いつでもフランスにお越しください。では、ミスター渡辺、お忙しい中、ありがとうございます」
ピエールは軽く会釈すると、その場を離れた。
「飛行機が落ちないように祈っててやるよ」
渡辺が嫌味を投げかけたが、
「一度死んだ身ですので、二度目は特殊に生きていますから心配無用です」
振り向きもせずピエールが返したのは、聞いたことのある言葉だった。
「やはりスイスの組織から送られてきた奴だったが、本人にも事情があるみたいだ。詳しくはお前が帰国してから話す」
国際線のアナウンスが頻繁に流れ、ロビーも旅行者たちで賑わい始めている。渡辺は空港を後にしながらワシントンにいる宗一郎に電話を掛けた。アメリカ東海岸とは時差が半日以上あるから、向こうはまだ土曜日の夕方だ。電話越しに宗一郎のため息が聞こえる。
『いくら恵子と約束したからって、二人が危険なことに巻き込まれたら本末転倒だよ。恵子だってそんなこと望んでいないよ』
恵子が無念を託した相手は、息子の直人でも兄の宗一郎でもなく、渡辺だった。久しぶりに掴んだ手応えに、二十年前の記憶が渡辺の心の奥に蘇る。認めたくはないが、恵子との約束は口実に過ぎないのだろう。
「結局、人間は本能的な好奇心に逆らえないのさ」
そう云うと、渡辺は宗一郎の電話を切った。
【エピローグ『地の果て』に続く】