【続編】メメント モリ II 22章 糸の先
もし未だに青山夫妻の依頼に事務所が追われていたら、今日はきっと都立国際大学のハロウィーン祭に潜入していたことだろう。だが、こうして土曜日の昼過ぎに荒木捜査一課長の計らいで、マジックミラーが設置された特別な部屋にいる。
部屋の中は暗く、壁に背中を預けるように渡辺が後方から正面を見詰め、手前には荒木ともう一人の刑事が、ガラス越しに映る逸見寛の姿を観察している。あくまで参考人として、逸見寛は招かれているが、荒木の部下が取り調べを始めてから、すでに四十分ほどが経過していた。
「何度もお伝えしているように、私と黒川氏の接点はフロックと呼ばれる大学のサークルだけです。確かにサークル出身の卒業生は法曹界や政界のキャリアを積む人が多いのは事実です。もし黒川氏が秘密裏に何らかの活動をしていたのであれば、それはフロック以外──、大学の外での話でしょう」
「黒川氏は、その大学サークルの内部でスパイを育成し、港区所在の海運会社を経由して外国に送り込んでいたようですが」
「初耳です」
逸見教授の堂々とした口調は一貫していて、投げかけられる質問に対しても特に驚く様子もない。
「狸め」
荒木が低く唸ったが、ガラスの向こうの取調室までは届かない。表情を変えない逸見教授の思考は読み取りにくく、取り調べも決定打に欠け、時間だけが無駄に過ぎていく。
突然、逸見教授は黙り込むと、鏡の方に眼を向けた。もちろん鏡がマジックミラーであることは一目瞭然だが、ガラスを通して向けられた突き刺すような視線に、直人は心臓を掴まれたような恐怖感を覚えた。
「大丈夫だ」
渡辺が耳元で囁いた。だが、逸見教授の鋭い視線は依然として直人たちのいる部屋へ向けられている。まるでガラス越しに、こちらの様子を窺っているような眼差しだ。
暫く鏡の向こう側を観察するような目つきで見詰めていた逸見教授だったが、正面に座る荒木の部下に視線を移すと、
「残念ながら、私は警察側が望むような情報を持っていません」
椅子から立ち上がり、これ以上の面談は弁護士の立会いを望むと応えた。
取り調べが逸見教授のペースに嵌ったことに荒木は舌打ちしたが、直人はこの不気味な空間から早く逃げだしたかった。
逸見教授が身支度を始め、呼応するように荒木の部下がドアの方へと向かう。そんな光景をガラス越しに見詰めながら渡辺が口を開いた。
「外国の銀行に手を出すのは危険です」
「わかっている。だがお前もあの男に興味があるのだろう?」
「荒木さんが巻き込まれる必要はありません」
逸見教授が取調室から出ていく姿を眺めながら、ため息交じりに渡辺は応えた。逸見寛が抵抗することもなく警察の取調に応じたことに、渡辺は何か違和感を感じているようである。
「巻き込まれるも何も、ワシの部下が変死したんだ」
荒木は振り向くと、渡辺を睨んだ。
「銀行はあくまで顧客の資産を管理するだけです。顧客が何をしているのかには興味ありません」
直人は逸見寛が黒川和男に投げかけた言葉を重ねた。
「副頭取の甥っ子がそう云ってます」
渡辺の苦笑いに荒木は眉をひそめたが、その時、逸見教授を送り出した部下がタイミングよく戻ってきた。
「神崎君、事務所まで車で送りましょうか?」
荒木の部下が親切に尋ねてきたが、直人は丁重に断ると、背後から荒木の声が聞こえた。万が一、逸見寛の仲間が建物の近くにいる場合を考え、渡辺とは別々に建物を出るようにとの指示だった。
「じゃあ、俺が先に出よう」
渡辺は荒木に礼を云うと、先に取調室を後にした。
渡辺が警視庁を去ってから、すでに二十分以上が経過している。直人は建物を出ると、最寄りの駅へと足を向けた。あとはこのまま事務所に直行するだけだった。だがその時、見覚えのある車がゆっくりと近づいて来るのが目に入ってしまった。
直人が思わず足を止めると、エリック・ホフマンの車の運転席の窓が開き、ピエールの端麗な顔が現れた。
「ナオ、乗ってください。明日の朝、日本を発ちますので、少し話をしましょう」
顔をほころばせ、ピエールは直人に助手席に乗るよう勧めた。
「エリックさんと一緒ですか?」
直人に緊張が走った。車にはピエールしか乗っていないが、このままエリック・ホフマンの所に連れていかれる可能性がある。
「大丈夫です。私はエリックの組織には属していませんので」
まるですべて見透かしたようにピエールは応えると、
「同じ特殊能力者同士、情報交換しませんか?」
美しいグレーの瞳が鋭く光った。
直人は硬直し、息を飲んだ。特殊能力者だとピエールにバレている。だが不思議と危機感は感じない。渡辺も平岡もピエールを危険視しているが、直人は最初からピエールに対して悪い気はしないどころか、どこか懐かしいとさえ思えた。
──知りたい、ピエールは何者なのか。特殊能力についても──
湧き上がる好奇心には勝てず、直人は無言のまま車を回り込み、助手席に滑り込んだ。後悔はない。
「初めて会ったときに、なぜか懐かしい匂いがしませんでしたか? 相手が能力者であることを〝ここ〟が感じ取ってるんですよ」
額を指差しながら微笑むと、ピエールは車を走らせた。
【23章『二つの光』に続く】