【短編小説】メメント モリ 寄生体 ②
「退院後も定期的に検査をしましょう」
安藤医師は退院手続きの書類を看護師に渡した。
死の淵から蘇って五日間、直人にとって検査の連続だった。その間、幸いにも個室が与えられたが、驚異のスピードで直人が回復してしまうと退院の許可が下りた。
直人は傍で医師の話を真剣に聞いている母親の姿を見詰めながら、手術後に面会に来た時のことを思い浮かべていた。あの日、神崎恵子はベッドに横たわる直人の姿を確認すると、
「寿命が縮まったわ……」
そう呟き、全身から力が抜けるように床に座り込んだ。昨年末に〝余命六か月〟と宣告されていた母親の寿命をさらに縮めてしまったのかと、直人は自己嫌悪に陥ったが、
「親に先立つは不孝」
恵子は持論を展開した。恵子は余命のことを知らない。
そんな五日前の出来事を思い起こしながら直人が荷物をまとめていると、背後から聞き覚えのある男の声が響いた。
「恵子、直人を迎えに来たぞ」
振り向くと、懐かしい声の持ち主は、直人の家族と昔から交流のある渡辺叡治であった。
「見ないうちに大人っぽくなったな」
「お久しぶりです渡辺さん! 入学式以来ですね」
直人は弾んだ声で応えた。渡辺と会うのは約五年ぶりである。
小さい頃から頻繁に神崎家に出入りをしていた渡辺は、神崎隆一の死から半年後に探偵事務所を立ち上げると多忙を極め、直人の少年期の頃と比べると付き合いの頻度は減った。だが伯父の橘宗一郎とは、今でも頻繁にやり取りをする間柄である。渡辺と宗一郎は同い年の五十一歳だが、上品な雰囲気に包まれながらも銀行家であるが故の神経質さが、どこか表情に翳りを落とす宗一郎とは対照的に、綺麗に手入れされた無精髭に精悍な光を湛えた眼が時に鋭く光る渡辺には男の精彩さがある。そんな渡辺に、直人は物心がつく頃から若干憧れのようなものを持っていた。
「叡治君、兄は来なかったの?」
恵子は不思議そうに尋ねた。
「あれだけ派手に騒いだからなぁ。昂ぶりが醒めた後は嫌悪感に陥ったんだろう。宗一郎らしいな」
顎を撫でながら、遠くを見るような眼で云った。
渡辺の話によると、直人が手術中に心拍停止したと宗一郎から連絡が入ったあの日、慌てて病院に駆けつけると一足早く到着していた宗一郎が血走った眼で喉元を引きつりながら叫んでいたらしい。普段は上品でバランス感覚に長ける宗一郎からは想像もつかないほどの剣幕であったようだが、渡辺は〝法的処置〟と騒ぎ立てる宗一郎をどうにかして収拾したと説明した。
「まあ、それよりも無事退院できてよかった」
そう云いながら、直人の荷物を運ぼうと渡辺が手を伸ばした時、
「直人、カラーコンタクトしてるのか?」
突然、妙なことを聞いた。
直人は眼鏡もコンタクトレンズも必要ない。ましてやカラーコンタクトなど着けたことがない。直人が渡辺の問いに戸惑っていると、
「眼の色が昔と少し違う」
渡辺は直人の外見に生じた些細な変化を見逃さなかった。
「久しぶりに会ったからじゃないですか?」
直人は不思議そうに渡辺を見詰めた。
「あら、年取ると瞳の色が変わることもあるわよ」
恵子が話に割って入ってきた。
「母さん、僕はまだ二十三です」
「あら、失礼」
恵子は一輪の蕾が開花するような微笑みを湛え、病室を出た。渡辺は固く口を閉じ、それ以上追求せずに恵子の後を追った。
「そんなに違うのかな?」
直人は渡辺の〝カラーコンタクト〟という言葉が気になった。恵子と渡辺はすでに病室を後にしていたが、洗面所に駆け込むと鏡で瞳を確認した。
「渡辺さんは瞳の色が以前と違うと云ってた……」
仔細にわたって見れば、右の虹彩の淵は少し赤く、また左の虹彩の淵は青緑っぽい色が入ってる。だが目を凝らして見なければ判らない。
「いつから瞳の色が変わったんだろう……」
他にも変化した部分はあるのかと考えたが、瞳の色以外は特に見当たらない。ただ妙に頭が冴えている感覚はあったが、この時はまだ「生きてるだけで丸儲け」ぐらいの感覚でしかなかった。