【続編】メメント モリ II 17章 捕獲
大学の授業が終わった火曜日の昼過ぎ。マンションの少し手前まで来たところで後ろから低いエンジン音が聞こえた。振り向くと一台の白い車がゆっくりと近づいてきている。青山涼は足を止めて車が通り過ぎるのを待ったが、その白いセダン車には見覚えがあった。車は青山涼の横で停車すると、スモークがかった助手席の窓が下がり、父親の顔が現れた。
「涼、話があるから乗りなさい」
「な、何の用?」
青山涼は唐突な出来事に反抗の色を見せるが、父親は乗車するよう催促する。
「警戒しなくても大丈夫だ。私だけだ。お母さんはいない」
青山涼は今学期は二科目しか受講していない。プロジェクト・エムに参加するために不可解な契約に従い、親に黙って差額の授業料を参加費に充てた。まさかそのことに気づかれて咎められるのではないかと頭の中で思いを巡らせていると、後部座席のドアが開き、長身で体格の良い男が車から降りてきた。
「青山涼君、君は今、とても危険な状況下にいる」
冷静だがハッキリとした強い口調が、青山涼の興味を引いた。
「危険……?」
眉をひそめて聞き返したが、男はそのまま話を続ける。
「プロジェクト・エムは現在、警察の監視下に置かれている」
咄嗟に車の進行方向とは逆に体を翻したが、車のドアと男の大きな手に挟まれ、身動きが取れなくなった。
「乗りなさい、涼!」
父親の悲痛な叫びが助手席から聞こえたが、それを打ち消すかのような落ち着いた声が落ちてきた。
「君を助けたい」
驚いて見上げると、目の前にいる男が優しく微笑んでいた。
直人はバックミラー越しに青山涼と渡辺が後部座席に乗り込む姿を確認すると、ドアにロックをかけた。
──こちらが優位に立てる場所か──
移動する車の中で話し合いの場を設けるとは思いつかなかったが、青山涼を外部から遮断し、閉じ込めるには十分な場所である。先ほど渡辺が後部座席のドアを閉めるときにチャイルドロックを掛け、内側からドアを開けられないようにしてある。あとは目的地まで一定の速度で車を運転すればいい。
直人がゆっくりと運転を始めると、青山涼の父親は大きなため息をついた。
「涼、橘十和子さんのご友人の渡辺さんだ」
渡辺は横に座る青山涼に視線を向けると、短く挨拶をした。
「はじめまして、涼君」
「……はじめまして」
遠慮がちに受け応える青山涼とバックミラー越しに眼が合った。
「彼は私の部下です。気にせずに」
渡辺はそれだけ云うと、要点に斬り込んだ。
「君が参加しているプロジェクト・エムは現在警察の監視対象だ。じきにバラバラに解体させられる。その時に責任者の黒川和男は逮捕されるだろう」
「証拠は?」
焦燥感からか、口調は素っ気ない。
「最近、メンバーの一人が警察沙汰になったのを知っているかい?」
青山涼は黙り込んだが、渡辺は気にすることなく淡々と話を続けた。
「黒川和男は外国のシンジゲートと裏取引をしているようだが、すでに警察にマークされている。信用を失った人間の末路はどうなると思う?」
初めて耳にするような話に、青山涼は眉を顰めた。
「警察が逮捕する前に、処分されるだろう」
「え?」
驚いた声を漏らすと、青山涼は渡辺の方に向き直った。
直人は後ろに座る二人の様子をバックミラー越しに眺めながら、渡辺の言葉を頭の中で反芻した。確かに渡辺の云う通り、黒川元判事は警察の手に渡る前に犯罪組織に消される可能性がある。情報漏洩者と判断されれば粛清の対象だろう。
「すでに黒川和男の関係者が変死している。時間の問題だ」
渡辺が醒めた微笑みを浮かべると、
「誰かが裏切って情報を流したんですか?」
青山涼は俯いたまま口を開いた。
「犯罪に手を染める前に退会するんだ。外国に売り飛ばされるぞ」
「外国に売り飛ばされるんじゃない。リクルートされるんだ!」
「同じようなものさ。損害を最小限に抑えるために資産は回収される。資産とはこの場合、人間のことだが、利用価値がなければ処分、または外国に流すかだ」
渡辺は一方的に会話を続けた。
「プロジェクト・エムは、社会人になってから本格的に活動を開始するのだろう? 指令はどこから来る? 欧州か? 欧州といえば逸見寛教授も関与しているらしいな。君は逸見教授の推薦で参加したのだろう?」
「なぜそれを──」
「メンバーの大半が法科学科の生徒らしいが、なぜ逸見教授は君を推薦したんだ? 法科学科の生徒が君の入会の件で揉め事を起こしたと聞いたぞ」
青山涼は半ば呆然として渡辺の話を聞いていた。
「君は法科学科の生徒から嫉まれているから気をつけた方がいい。警察が介入した時、奴らは絶対に保身に走る。真っ先に異端児の君をスケープゴートとして警察に差し出すだろう。君は学生だが未成年ではない」
青山涼の表情が動いた。だが、主導権を渡辺に握られ反論する暇もない。
「外国に送られた卒業生はどれくらいいる? マスコミに嗅ぎつけられれば一大スキャンダルだ」
「──わかりません。オレはただ、逸見教授に勧誘されただけです。プロジェクト・エムの参加者は外国に引き抜かれるって噂は聞いたことはありますが……」
青山涼は神妙に応えた。
「メンバーは何人ぐらいいるんだ? 逸見教授以外の教員は?」
渡辺が厳めしい表情で畳みかける。青山涼は観念したのか少しずつ情報を漏らし始めた。
「毎年四季に合わせてフロックのメンバーから一名選出されます。ですから年に四名入会しますが、卒業もしていきます。院生もいますから、合わせて十名から十五名ぐらいだと思います」
「涼は今年の秋に入会したのか?」
今まで黙っていた父親が尋ねた。息子が頷いたのを確認すると、
「授業料の問題は気にしなくていい。誰だって間違いは犯すものだ。お前が無事であることが一番大事だ。できれば問題が片付くまで休学するべきだと、お母さんと話し合った」
直人は眼を細めると、バックミラーの端に映る青山涼を見た。
正直羨ましいと思った。神崎隆一は二十年前に事故で亡くなっている。当時小学二年生だった直人は〝父が外国で事故死した〟と母から聞かされただけだった。恵子と宗一郎が即座に中米に飛んで、遺骨となった神崎隆一を日本に帰国させた。今でもなぜ父親があの頃中米にいたのかよく憶えていないが、二月の寒い冬の日だった記憶はある。
──確かコスタリカだったはず──
コスタリカは自然豊かな美しい国だが山が多い。霧が発生して車の事故は日常茶飯事だという。当時は遺体をそのまま日本に搬送するのは難しく、現地で火葬にして日本に戻したと、伯父から説明を受けた。
──渡辺さんは訴訟があって、あの頃日本を離れられなかったんだっけ──
「ピエール・ブランシェという男はプロジェクト・エムに関与してるのか?」
鋭い渡辺の声に、直人は一瞬にして現実に引き戻された。
「いいえ、逸見教授の話によると、あの博士はプロジェクト・エムとは無関係のようです。ただ、総長とは面識があるようですが」
「総長?」
「黒川元判事のことです」
「なるほど」
渡辺が苦笑いを投げかけると、直人は黙って頷き、首都高速道路に入った。
「え、首都高? 一体どこに向かってるんですか?」
青山涼が怪訝そうに尋ねると、父親が振り返って返答した。
「那須の山荘だ。お母さんはすでに到着して待ってるよ」
「は?」
「幸い入会してまだ日が浅い。今年いっぱい休学すれば断ち切れるだろう」
渡辺は笑みを残して応えた。
「休学?」
「二科目しか取っていないくせになぜ心配する?」
渡辺の指摘を認めたくないのか、
「……逸見教授には何と……」
青山涼はかろうじて尋ねた。
「その件はこちらで預かる。ただ、優位に進めるには色々と内部情報が欲しい」
「那須に着くまで二時間以上ありますから時間は十分あります」
直人はそう云うと、車線を確認しながら、前の車を追い越し、密集したビル群を滑るように車を走らせた。これから大規模な掃除が始まる。青山涼が巻き込まれないように保護することはどうやら成功しそうである。
「何もない那須の山荘で、正月まで親と過ごせと?」
青山涼は暗いため息をついた。
「いい機会だから親孝行でもするといい。罪悪感が少しでもあるのなら」
渡辺は諭すように云った。
「青山さんはとても寛大な方です。ご家族を大切にしてください」
ハンドルを握りながら直人が口を開いた。
「僕の両親はすでに他界しています。父は二十年前、母は四年前に。この世に生まれてきた以上、死は誰にでも平等に訪れますが──」
車内が静まり返ってしまい、慌てて直人はバックミラーで渡辺を見ると、
「まあ僕の場合、頼りになる渡辺さんが父親代わりになってますけど」
伯父も金銭的に頼りになると付け加えておいた。
「色々な家族の形があるさ」
渡辺の眼差しには温かみが滲んでいた。
【18章『帰途』に続く】