【短編小説】「クィーンパラドックス」
私の人生にけちがつきはじめたのはいつからかと誰かに尋ねられたら、二十年前、プロムクイーンになりそこねた所からだと話すだろう。
もし、あの時クイーンになれていたなら、今こんな窮屈になりかけていて油染みの抜けきれていない野暮ったい制服を着て、ダイナーのテーブルを拭いたり、少ないチップの金額に一喜一憂したりもしないだろうし、住む場所もおんぼろのトレーラーハウスなんかじゃなかったはずだ。
ママだってキッチンドランカーにならなかったはずだし、パパが胡散臭い投資話に乗って借金まみれになることも、ショットガンで頭をぶち抜くこともなかったはずだ。
きっと私の話を聞く人はプロムクイーンとこれまでの私の人生に起きた数々の悲劇には関連性がないときっぱりと否定するに違いない。クレイジーだって言われてもしかたのないことだとは承知の上であえてもう一度言う。あの時プロムクイーンになっていれば今とは全然違う人生になっていたと私は確信している。綺麗に並べたドミノの最初に倒れた一枚だったと信じている。
「やあ、ケリー。コーヒーをもらえるかな?」
元同級生のシェイマス・アンダーソンが声をかけてきたのは、私がボックス席のソファーにこぼれていた何度拭いてもベタベタするパンケーキシロップにげんなりしているところだった。シェイマスは私の家族がまさにスキーで滑り落ちるように一瞬で転落した後も、私がこのダイナーで不遜で無礼な男どもにお尻を撫でられたり追いかけ回されたりすることがなくなった今も態度が変わらない私にとっては貴重な友だちだ。
シェイマス自身は大学を卒業して化学だかなんだかで博士号を取って、この二十年で私にはなんだかよく分からない特許をいくつも持ち億万長者の仲間入りをした。パソコン部でオタクで分厚いメガネをかけていた高校時代のシェイマスの面影なんて一つもない。なのにこんな田舎町に最近になって時々やって来る。私みたいに面倒を見なきゃいけないアルコール依存症の母親がいるわけでもないのに。
「シェイマス。久しぶりね。ここの不味いコーヒーが懐かしくなったの?」
シェイマスは何かモゴモゴと言いかけてから小さく「ああ」と言ったので、私は不味いコーヒーと言われてムカついているオーナーの横をにこやかに通り過ぎてコーヒーを注いだ。表に止められているアストンマーティンが目に入る。シェイマスの車だ。
アストンマーティンになりたい。なんならハーレーダビッドソンでもいい。どんな男からも間違いなくとびっきり大切にされる。機嫌を損ねて動かなくなっても面倒くさいなんて思われない。丁重に扱ってもらえる修理工場に連れて行かれるか、優しくオイルを差してもらえるはずだ。
今より少し若かったころは乗り込んだり跨ったりする前なら私も大事にされた。その後の方がずっと大事にされるアストンマーティンやハーレーダビッドソンに憧れるくらいには私は男どもに失望している。
その日仕事を引けると土砂降りだった。まるでホラー映画のイントロダクションみたいに目を閉じているのか開いているのか分からなくなるくらい真っ暗な夜空だった。本能的に急がなければいけないと思った。びしょ濡れになっておんぼろトレーラーハウス帰ると案の定《《よくないこと》》が起きていた。
「ママ?」
ママは万年床で寝ているように見えた。でも普通じゃないことがすぐに分かった。私が自分のバッグに隠しておいたはずの開けたばかりの睡眠薬のプラスチックのボトルが安ウイスキーのボトルと一緒に枕元に転がっていた。
「ママ!? ねえ!? ママ?」
息があった。救急車を呼ばなきゃいけない。母親が生きていたことに少しでも残念な気持ちがある自分を呪いたかった。医療費がどれだけかかるか思うとゾッとする。惨めだった。お金がないことは惨めだ。お金がなくなったせいでパパだって頭をぶち抜いた。溢れる涙を拭った。私は自分の携帯電話をポケットから出してすぐに通話ボタンを押したけど電話が使えない。今朝家を出る前にくしゃくしゃにした請求書のことを思い出した。
「ママ、待ってて、救急車を呼んでくるから」
トレーラーハウスを飛び出した瞬間だった。強烈な光と地面が割れるような音がして私は気を失った。
◇◇◇
信じられない本当に信じられないことが起きた。雷に打たれた私は二十年前にタイムスリップしていた。デロリアンもなしにこんなことが起きるなんてあり得ない。大体自分の体まで二十年前に戻っているなんて。しかもチアリーディングの練習の最中だなんて。
きっとシェイマスだったら、あらんかぎりのあり得ない理由を物理学的に、化学的に説明してくれるに違いないけれど私にはそんなことできるはずもない。考えられるのは、私は雷に打たれて死んでしまって、天国でも地獄でもない場所にいるんじゃないかなってこと。でも、たとえこれが現実じゃなかったとしても、もう一度ドミノ倒しをするのはごめんだ。こうなったら、絶対にプロムクイーンになって、パパが頭をぶち抜くのもママがアルコール依存症になるのも止めてやる。更衣室でカレンダーを確認したら4月だった。まだ間に合う。チアリーダーの衣装を脱ぎ捨てると私はパソコン部に向かった。
「シェイマス! ねえちょっと」
パソコン部のオタクどもは私の登場に目をまん丸にさせている、シェイマスだっておっかなびっくりってかんじだった。
「やあ、ケリーどうしたんだい?」
「お願いがあるの。私今度の数学のテストで落第が確実なの。どうにか落第を避ける方法を教えてくれない?」
「いいけど」
シェイマスが待ち合わせようと言ったのがよりによって私が働いていたダイナーだったのは気に入らなかったけどそんなことは大して重要じゃなかった。私はあの数学のテストでどうしても落第するわけにはいかないのだ。
躍起になって勉強する私を尻目にシェイマスは例の不味いコーヒーを啜った。
「どういう風のふきまわしで君が勉強する気になったのか聞いても構わないかい?」
「私ね、この数学のテストで落第するとジャクソン・テイラーに振られるの。ジャクソンのことなんかどうだっていいんだけど今ジャクソンに振られるわけにはいかないのよ」
ジャクソンの名前が出てきた途端、シェイマスは明らかに不機嫌になった。それも仕方がないことだ。ジャクソンは筋肉代表。シェイマスは頭脳代表。お互い相容れない存在なのだ。
「なんだって数学とジャクソンが関係あるんだい?」
「あいつは本当は私のヒップとバストにしか興味がないくせに、私が数学で落第した途端に頭が空っぽな女はつまらないだとか言って私のことを振るの。プロムにはナタリー・ローガンを連れて行くの。パートナーのいない私はプロムに行けなかったの!」
「ジャクソンとナタリー!? あり得ないだろう? 犬猿の仲なのに」
「犬猿の仲は見せかけよ! あの2人は大学卒業と同時に結婚するんだから!」
シェイマスの動きがピタリと止まった。どうしてだろう? そうだ! シェイマスがナタリーのことを好きだったのを忘れていた。シェイマスと議論できるのはナタリーくらいなものだった。ナタリーは確かに完璧だ。私みたいなブロンドじゃなくてブルネットだけど、でもどんな映画でも運命を切り開くヒロインはたいていブルネットだ。それにナタリーは美人だし、おまけに頭がいい。
「シェイマス、落ち着いて? ナタリーは確かに完璧かもしれないけど、見る目がないの。ジャクソンみたいな最低な奴に夢中になるんだから」
でも、ナタリーと一緒のジャクソンはそんなに最低でもなさそうだったなと思いだすとしゃくに触る。
「僕は別にジャクソンとナタリーがどうなろうと知ったこっちゃないんだ」
「私にまで嘘をつかなくてもいいのよ? 頭のいい人が頭のいい人を好きなのってとても自然なことだと思うし」
「ケリー、本当に違うんだ。それよりも君がジャクソンのことがどうでもいいって、本当かい?」
「本当よ。ただジャクソンは私の周りにいる男の子の中でまだましっていうだけ」
「それじゃあ……」
シェイマスは何かモゴモゴ言ったけど、ほとんど聞こえなかった。そういえば、いつもシェイマスは何かを私に言えていない気がする。
「どうしたの?」
「やあ、いいんだ。それよりどうして、ジャクソンとナタリーが結婚するって分かるんだい?」
私は少し考えてから大きく息を吸った。
「シェイマス、これはね、この世界は私の天国でも地獄でもない世界、つまり私の死後の世界なの」
「何だって?」
「頭がおかしいと思われても仕方ないけど私はもうすぐ40歳って時に雷が落ちてきて死んだの。目覚めたら90年代にいたってわけ。どう考えても死後の世界でしょ?」
シェイマスは笑わなかった。
「ケリー、もっと詳しく話してくれないかい?」
私はプロムクイーンになり損ねてからの自分の人生を隅から隅までシェイマスに話した。シェイマスは私の話を真剣に聞いてくれた。
「私最低よ。ママが生きていたのに、一番に心配したのはお金のことなんだ
から。私が雷に撃たれてママだってあのままきっと死んじゃったに違いないの」
「シー。ケリー。落ち着いて。君のおばさんだって救えるよ。君は死後の世界だと言ったけれど、僕から見ればこの世界は紛れもない現実だから。とにかく君のおじさんが怪しい投資話に乗るのを止めないと。君からおじさんを説得することはできないのかい?」
パパを説得する。そんなことができたらいいのに。涙かこみあげてきた。
「パパは私を愛しているけど、ジャクソンと同じなの。私の頭の中が空っぽだと思ってる。だからきっと信じてくれない」
泣きじゃくる私が落ち着くまでシェイマスは辛抱強く待ってくれた。
「ケリー、おじさんが何にいつ投資したか覚えているかい?」
「もちろんよ! あれはセブンシーズアンドエアーインダストリーズ、通称SAIって言う環境に優しい農薬とか、よく育つ野菜の種を開発している会社だっていったけど……。中身は空っぽなの!」
「オーケー。空っぽには空っぽで対決することにしよう。おじさんが頭をぶち抜くのは必ず阻止するよ。そのかわり……」
「そのかわり?」
シェイマスの分厚いメガネの奥のブルーの目がキラキラと輝いていた。やっぱり何かをモゴモゴ言っていて聞き取れない。でも、20年前の私が気づかなかったことに私はようやく気づいた。
「嘘でしょう? あなたが好きなのはナタリーだと思ってた」
「違うね。ケリー。プロムには僕と行って欲しいんだ、ジャクソンとじゃなく」
私は冴えない頭で考えた。フットボールのキャプテンのジャクソンとプロムに行けばクイーンに選ばれやすい。でも20年前シェイマスが誘ってくれていたら、きっと喜んで一緒に行ったに違いない。
「あなたが誘ってくれるなら、数学のテストに落第してもいいことになっちゃうけど、イエスよ。でも不思議なの。あなた、20年前は誘ってくれなかったのにどうして?」
「君がジャクソンに熱を上げていると思い込んでいたんだろうね。でもね、ケリー。数学は落第しない方がいいと思うよ?」
そう言ってシェイマスは私が解けないでグズグズしていた問題をスラスラと解きはじめた。
◇◇◇
シェイマスに言われたのはパパの書斎からSAIのカタログや資料を拝借してくることだった。私はそのミッションをクリアして資料をシェイマスに渡した。彼がいったい何を考えているのか全く分からなかったけどわくわくした。
「ケリー、おじさんはこれからSAIの株を買うことにはなる。でもSAIはSAIでもシェイマス・アンダーソン・インダストリーズの株をね。僕の名前がついているけど、君の会社だ。中身はないけど、おじさんが無一文になることもない。君の会社だからね」
「私の会社なんてなんの利益もださないから困るわ。あなたが本物の会社を作っちゃえばいいじゃない」
「ケリー、ぼくがおじさんの財産を盗んだらおじさんが無一文になるってことを忘れちゃいけないよ?」
「私の向こう20年で最も信用していい人間を一人だけ選ぶとしたらシェイマス・アンダーソン、あなたよ。それに私たちの誰よりも成功するのもあなたなんだから」
シェイマスのメガネが曇った。プロムまでにはできたらコンタクトレンズかもっと洒落たメガネにかえて欲しいけど、分厚いメガネも妙に懐かしかった。
「分かったよ」
シェイマスは元のSAIそっくりの自分の会社のカタログを作って私にすり替えさせた。
◇◇◇
「ねえママ、どうしてせっかくの結婚記念日にランチに決まってここに来るの?」
ケイティーは膨れっ面でチェリーパイを突っついている。ぶつぶつ文句を言っているけどここのチェリーパイだけは最高だと彼女はよく知っている。私が教えたのだ。
「初心忘るべからずってとこかな」
「ここでパパに勉強を教えてもらった思い出話のこと?」
とんでもない。絶対にここのテーブルを二度と拭かないという戒めの意味だけれど、そんなことはこの子に言っても分かるはずがない。
あの日稲妻にうたれて90年代に戻ってシェイマスに数学を教えてもらってから私の人生は前の20年とは全く違うものになった。
数学のテストには落第しなかったけど、ジャクソンを自分から振った。私がシェイマスとプロムに行くと言ったらジャクソンはカンカンだったけど20年前の意趣返しはきっちりできた。
「ごめんなさい。私ってほら、頭があまりよくないでしょう? だからシェイマスの頭脳ってたまらなくセクシーだと思うの」
この意趣返しが功を奏したのかどうかは分からないけれどプロムクイーンにだってなれた。
プロムクイーンになれなかったのが私の最初に倒れたドミノだったと思っていたけれど、本当は違っていた。私の知らないところで本当は色んなことは起きていたのだ。私は自分でもっと考えて行動すれば良かったのだ。そして、ダイナーのテーブルを拭きながらずっと考えていたことの全てをやってのけた。
あの時こうしていたら、ああしていたらを。今は子育てをしながらファッション業界で働いている。あの野暮ったい制服を着ていても私は20年ファッション雑誌は欠かさず読んでいたから何が流行るか誰が次にブレイクするのかは熟知していたから簡単に成功できた。
「ママ、もう時間でしょう?」
すっかり生意気な口をきくようになったティーンエイジャーの娘を乗せて私は自分のアストンマーティンのエンジンをかけた。
◆◆◆
信じられない全てがまるで夢のように叶ってしまった。素晴らしい妻と娘を得ることができた。ケリーはなにも知らないのだ。あの稲妻は僕が作り出した転送装置から出されたものだということを。肉体の時間まで戻すまでにかなりの時間を開発に費やした装置だった。
僕は確かにあの学校の誰よりも成功したと言えるだろう。けれど女運はすごく悪かった。億万長者になったとたん、どんな美女でも目の色を変えて追いかけてきたけど、最終的に待っているのは裏切りと破局となぜだか僕が支払うことになる多額の慰謝料だった。
40も手前で僕は結婚も家庭も諦めた頃、たまたま母校の講演会に出演することになってあのダイナーに立ち寄ったらケリーがいた。
なんだか、すっかりくたびれた様子だったけど、彼女が僕の初恋の人で、彼女が昔ぼくにどれだけ親切だったかを思い出した。彼女とだったら今からでも人生を仕切り直していけるかもしれないと考えたけれど、ケリーはぼくのアストンマーティンで目の色を変えることもなかったし、食事に誘っても母親の世話があるからといって断った。
どうやら、彼女の生活が楽ではないことは察していた。でもだったら僕のアストンマーティンの助手席に乗ってしまえばいいのにと考えてハッと気づいたのだ。そんな女ばかり乗せてきたから今僕は幸せではないのだ。
僕は世界をひっくり返すことさえできる装置を自分のためだけに使うことにした。でも世界にとってもそれが正解に違いない。
外で僕を呼ぶクラクションが鳴っている。ケリーのアストンマーティンだ。アストンマーティンが好きなことは知っていた。でも、まさか運転がしたかったとは。人生には解くべき謎が沢山あるものだ。
了
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