「断罪パラドックス」 第32話
四ノ宮と結託して迎えた二学期の中間テストは楽々に替え玉が成功した。安心していたのに期末テストで、数学の大神がインフルエンザで学校を一週間も休んだせいでとんでもない番狂わせが起きた。
「大神先生がインフルエンザでお休みなので私が数学のテストの返却をします」
ホームルームで五十嵐先生がそう言った時はなんとも思わなかった。四ノ宮は僕の名前の筆跡は完全に再現できたし、僕のほうもそうだった。五十嵐先生だって、数秒も手を止めることなく生徒の名前を呼んでテストを返していた。
「一条くんと四ノ宮くん、ちょっとお願いしたいことがあるから残ってくれるかな?」
あまりにもさりげない言い方だったので完全にだまされていたけど、五十嵐先生は教室に僕と四ノ宮のふたりを並んで座らせ、さっき返したばかりの数学のテストを出すように言ったんだ。
証拠を並べて押し問答になったけど、その日はわりとあっさり帰してくれた。けど、その後が問題だった。五十嵐先生は今度は僕だけを残らせた。
「ちょっと簡単なテストを受けてもらいたいの」
そう言って五十嵐先生が出したのは四桁から六桁の数字が二つ並んでいる問題が二十問くらいあった。
見た瞬間に毛穴から汗が噴き出していくのが分かった。顔色まで変わっていたかもしれない。僕はどうにか冷静さを取り戻すために、右手で左の二の腕を掴んだ。五十嵐先生はゆっくりこう言った。
「この二つの数字の間に不等号を書いてもらえる?」
「先生、こんな小学生レベルの問題を僕がやる意味ないでしょう」
つとめてゆっくり、なんでもないことのように言った。これが重要なことだと気づかれたくなかったからだ。数字の大小の認識に僕がどれだけ時間がかかるか知られたくなかった。時間という概念も数字が苦手な僕には把握しにくい。そのことが、この小学生レベルの問題で、僕の抱えている問題が、秘密がいとも簡単にバレてしまう。もうひとりだれかいればいい。そいつの回答を書き写せばいいんだ。でも、僕は今ひとりだ。先生はじっとこちらを見ていた。何か見通されているみたいで怖かった。
「そう? じゃあ、変えましょうか」
先生はそう言うと、机の引き出しから分厚い本を出した。大河ドラマの原作本で話題になっていた本だった。算数から離れたと思ってホッとしたのはつかの間だった。
「この本の、一八七ページを開いてみて?」
僕は目を見開いた。本を読むのは全然問題はない。算数の要素は本には少ないからだ。でも僕はパッと言われたページ数をざっと見当をつけて見つけることがとても難しい。
だらだらと汗が出てくるのを感じた。呼吸もおかしくなっていく。僕の異変に気づいた五十嵐先生は本を引っ込めた。
「ごめんなさい。いじわるをしてしまったわ。一条くん、あなたには算数障害があるのね?」
聞き慣れない言葉に驚いた。
「算数障害? なんですかそれ?」
「ディスカリキュアとも言うのだけれど、四十人にひとりはいると言われているの。算数や数字の概念、仕組みを理解するのが極端に困難な障害のことよ」
そういう障害があるのか、そして、僕だけではないのかという、すとんと胃の中に落ちていく感情と、絶対に否定しなければいけないという理性がせめぎ合った。でも、先生はダメ押しをした。
「一条くん、大変だったでしょう? この障害は簡単に隠し通せるものではないはずよ。あなたは他の突出した部分でこの障害を補っていたんじゃないかしら? それにしたって、日常生活に支障もあったでしょう?」
涙がこみ上げてきそうだった。いっそ認めてしまいたかったくらいだ。
どれだけ時間をかけても、努力しても見えない壁に囲まれているかのように乗り越えられないこと僕には沢山あった。母も祖父母も今までの学校や塾の先生だって気づかなかったのに、どうしてよりによって、母が復讐したいと盲信している五十嵐先生にこうして気遣われているのだろう?
それでも、僕は首を振った。
「先生、違います。僕は算数障害なんかじゃありません」
先生は「そう」と小さく返事をした。
僕の頭は混乱していた。先生は僕をどうする気だろう? ぼくはいつだって誰でも出し抜いてきた。初めてそれが通用しなかったんだ。五十嵐先生をどうするかは何も考えつかなかった。でも、四ノ宮を替え玉にしていた今、二村さんを大神に差し出す計画を早めなくてはいけなくなったのは間違いなかったし、五十嵐先生の弱点を見つけなければいけないと思った。
母が散々調べていたから、五十嵐先生本人には弱みがない。そうすると母の妄想の話が真実であるという証拠が見つかるか、弱みを作りあげるしかなかった。五十嵐先生の中では僕はもう問題児になっていたので、度々進路指導室に呼ばれた。このままでは、僕の学校生活が台無しになってしまうと僕は焦っていた。
進路指導室で五十嵐先生は僕個人のことを尋ねた。
「五十嵐くんは母子家庭よね? お父さまと会う機会はあるの?」
「僕は父親が誰だか知らないんです。試験管の中にいたってことしか」
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