【短編小説】『かりていも』
まさか、ここにまた来ることがあるとは思っていませんでした。私、中二の……。いつまで? 秋くらいまで通ってましたっけ? 先生。そう、この東棟の屋上に上がる階段、懐かしいなあ。ドアが開いていると、光が全部階段に注いで……。
「天使が舞い降りて来そうね、川村さん」
そう言ったのも、先生でした。
正直に言うと、この人馬鹿じゃないの? と思っていました。だって、あのころの私はそれどころじゃありませんでしたから。それでも、今、私のあのころの望み通りに、なったことはいくつかあります。ここに転任したことも、教師になったことも、確実に私の望みではありませんけど。
中二の時の私の望みですか?
誰も信じてくれない地獄から、抜け出すことでした。私が、毎晩のように父親に犯されていることを誰も信じてくれませんでした。
そうです。先生、あなたも。鼻先で笑いましたよね?
少女特有の妄想の末の虚言だと、やんわりと言っていましたね。まあ、今なら、多少は大人の事情も分かるんです。父親は弁護士でしたし、この学校に随分気前良く、寄付をしていたみたいですし。
私はいつも学校で問題ばかり起こしていましたしね。
誰にも信じてもらえなかった私は、自殺しようと思い詰めました。実際に何度か自殺をこころみましたが、死にきれなかった。そのうち、何故自分が死ななければならないのか分からなくなりました。父親を殺すことも考えましたが、あの男が安易にこの世から消えることも許せなかった。
なので、私は無関係の第三者を殺すことにしました。
私が殺人犯として逮捕されてしまえば、塀の中では、少なくとも二度と地獄を味合わなくてすみますし、たとえ、殺人でも少年犯罪には、いつだって更生のチャンスがありますから。
私の望み通りになりましたよ。
弁護士の娘が犯した殺人に、沢山の人が群がって、随分な騒ぎになりました。私が「更生」している間に私の家族は離散。職も失い、名誉も、財産さえ失って。誰もいなくなって、生き恥を晒す意気地もない、父親は首を吊ったんです。父親が死んだと聞かされた時、本当に笑いが止まらなくなるくらい、いい気味だと思いました。
そして、私は全く違う名前を貰って、全く違う人間のようにこうして社会に出て来ました。私のあの時の選択は間違っていなかったと思います。でも、どうして、教師になろうなんて、思いついてしまったか分かりません。
まあ、生まれた街の近くで、別人として過ごす分にはいい職業でした。何故かこの職業は人に信用してもらいやすいですもんね。その点では父親の職業と似ていて気持ちが悪いんです。
私は真面目に働きました。少女の頃の境遇を思えば破格の幸福でした。そのうちに、恋人もできました。ええ。今の夫です。夫は私の過去は何も知りません。彼が知るのは私が天涯孤独と言うことだけです。職場結婚だったので、どちらかが転任するのは必須でした。でもまさかよりによってこの学校に転任するなんて。
先生、人生はとても驚きに満ちていますね。できることならここに転任なんて絶対にしたくなかったんです。
でも、したくない理由を夫には言えませんし、すぐに子どもでも作って、退職してしまえばいいと思っていました。私みたいな生い立ちの人間が子どもを育てられるのか不安もありましたけど、夫はとても気のいい人ですから、彼となら子育ても楽しいかもしれないと。
そして転任してから、僅か数週間で私は妊娠しました。
転任したばかりでの妊娠を、無計画と思ったのか、同僚はいい顔はしませんでしたが、私はこの学校から、早く去りたかったのでとても嬉しかったですし、子どもが好きな夫は喜んでくれました。
ところで、先生、妊娠すると、聞き慣れない言葉を耳にすることがありますよね? 私にとっては、トキソプラズマが、その一つでした。寄生虫なんですってね。妊娠中は生肉や猫の糞に気をつけなければならないことを初めて知りました。
なんだか妙に寄生虫が気になったので、調べてみたら、寄生虫の中には宿主を操って死に到らしめるものもあるそうです。カタツムリに寄生して宿主を鳥に食べさせる寄生虫の映像を見ましたが本当に恐ろしかったです。
怖いと思いませんか? ああ、念のため聞いてみただけです。先生は怖くないですよね。だって、今の先生まるで寄生虫みたいですから。
ああ。やっぱりここで、止まるんですね。上から二段目。
十五年前、私が先生を突き落とした場所ですね。父親でもなく、自分でもない、第三者に先生を選んだのは、先生が今の私と同じように、妊婦だったからです。ここから落ちたら、間違いなく悲惨なことになるでしょうし、他の方法をとる場合も、動きの鈍いあなたなら、容易だと思ったから。
それから、先生、あなたのことが大嫌いだったから。
砂糖菓子のような笑顔で私の話を無視したあなた。ここから落ちた時の、あなたの叫び声と、骨のどこだかが折れる音と、見る間にできた血だまりは、今もちゃんと覚えています。
私は、昨日、三十週に入りました。あの時の先生と同じですね。そして、さきほど職員会議が終わって廊下に出てから、私の体は自分の意思ではないもので動いています。そして、決して来ようとしなかった、この場所。
東棟三階の屋上前に来てしまいました。このわずかな時間に考えましたが、先生は十五年も、私にとり憑いて、私が気づかない程度に、寄生虫のように私を操っていたんですね。
何度考えても、私が教師になったのは、不思議な上、不自然です。
この学校に赴任してから、すごくあっさり妊娠しましたしね。
先生の望みは十五年前の私を殺すことではなく、かつての自分と同じ高さから、私を突き落とすことだったんですね。私はこれから、ここから落ちて、あの時の先生と同じようになるのでしょう。骨のどこだかを折って、頭から血を流し、お腹の子と死ぬことになるんでしょう。
でもね、先生。私はあなたと同じ高さから落ちることの無念さよりも、あなたがあの時の私と同じ場所に落ちていることが、愉快でたまらないと言ったら、どうしますか?
了
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