今回は「真理の言葉」13章をテキストに、“信仰” について考えてみる。
“信仰” とは、合理的思考と経験によって培う “確信” である
ダスカロスのいう “信仰”(Faith)は、真摯な目的意識と努力の結果得られる “確信” であり、そのような “信仰” を得るためには “意志の力” ……すなわち、正しく “思考”(形態化したマインド)を使う力が要る。
残念ながら、Noel は山を動かせるほどの “信仰” は得ていない、、、現状は「知っていること」と「知らないこと」、「できること」と「できないこと」を明確にしつつ、思考(5次元的な認知力)の幅を広げる努力をしている段階ってところ (;´Д`A …
で、その際に障害になっているのが、潜在意識 に吹き溜まったネガティブなエレメンタル(人−悪魔、エゴイズム)、、、これがもうほんと途切れなく次々と浮上してくる、、、
ダスカロスが「じゅうぶん注意しなさい。エゴイズムは光の天使のような顔で現れてくるから」と忠告する通り、エゴイズムはひじょうにずる賢く狡猾だ。
エゴイズムは「わたしはわたしである」と決していわない。エゴイズムは「わたしがお前だ」といって騙し、精神と肉体の支配権を奪おうとする。が、エゴイズムには常に痛みや虚無感が伴うので、それによって喜びと充足感の源である「自己認識-魂」(ほんとうのわたし)でありたい(“なる” のではなく “ある”)……と決意することができる。
訓練によって“信仰”を確たるものにする
サイコセラピストについては、以下を参考にどうぞ。
奇跡を起こすレベルの “信仰” は、「永遠のパーソナリティー 」や「自己認識-魂」においては自明であっても、「現在のパーソナリティー」においては疑わしくなるのが一般的……つまり “信仰” とは、「現在のパーソナリティー」を「永遠のパーソナリティー」に融合させてゆくことであり、その “道” の途上において「真理の探究者」は、数多くの誘惑を受けることになる。
“信仰” を持たなくても、感覚エーテルや運動エーテル を使って物質を動かしたり、空中浮揚したり、霊と交信するなどの現象は起こせる……が、「真理の探究者」は現象ばかり求めず、現象が起きる仕組みの “理解”と、能力を適切に発揮するための道徳性に基づいた “信仰” を、意図的に養わなくてはいけない。
ダスカロスは誰でも訓練すれば、水の上を歩いたり、空中浮揚したり、パンを物質化することができるという。しかし、そのような現象を求めることが「真理の探究者」の目的ではない。
わたし達人間が 神 や 大天使たち と同様の “権能” を与えられているのは、それを現在のパーソナリティーのエゴイズムに奉仕させるためではなく(そのために使い続ければ力は取り上げられる)、神と同じ完全な存在となって同胞である人類を助けるためなのだ。
わたし達は「人-悪魔」に対して無力ではない。“正しい思考” で「人-悪魔」を非活性化するのはもちろん、“思考の物質化” でさえ、“自己”意識 の目覚めという条件を満たせば可能となる。
クリスチャンは、ミサや礼拝で「主の祈り」を唱える。
真理に基づいた “祈り” は「人-天使」(ポジティブなエレメンタル)を活性化し、「人-悪魔」(ネガティブなエレメンタル)を沈黙させる。
物質次元に近い振動数の粗いエンティティ、感情、欲望などをの「人-悪魔」は、5次元の ノエティカル・イメージ(ノエティカル・ライト) に キネーシス(移動)すると、宇宙意識に収納されて非活性化する。
これは、ごく初歩的な非物質化のスキルだ。