読み終えました。
とくに疑問に思うところはなく、大師をマスターガイドといい換えれば、「ダスカロスの教え」と同系に思えます。
けれど、クリシュナムルティ を救世主として祀り上げようとした C・W・レッドビーター(現代なら逮捕されて刑務所行き)がうさん臭すぎて、、、素直に信じる気持ちになれません。
アニー・べサント には彼ほどのカルト臭はないですが、彼女の思想や政治信条に同調できなくなったクリシュナムルティは、「真理は集団で追求するものではない」(Wikipedia「アニー・べサント」より引用)といって 神智学協会 を去ったのだとか、、、そして、彼が75歳のとき以下のように述べました。
それはつまり「じぶんは誰ひとり自由にできなかった」ということですよね? なんだかなーって感じです、、、が、知らずに語ることはできませんので、もう一冊だけ著作を読んでみることにしました。
それでわかったのは、クリシュナムルティは「捨てること」を好むということ……彼のいう「捨てるべきもの」とは、信念・教義・既成の概念・知識・理想・指導・精神的指針・模範・儀式・教会・法典・努力・自己鍛錬・祈り・道徳・正義・あらゆる形の霊感・ヨガ・瞑想・師・グル・救世主・神などであり、それらのものから完全に自由であることを求めます。
クリシュナムルティが認めるのは「あるがまま」と「愛」だけ。
このへんについては、とくに異論はありません。
要するに、じぶんのパーソナリティーを構成する エレメンタル をすべて自認せよ……ということですよね? しかし、いかなる創造行為にも加担することなく、ひたすらエレメンタルをみつめ続けるだけというのは不可能では? 生命現象は絶え間ない創造と消滅のダイナミックな動きですから。消滅のほうばかりやってると存在が危うくなってしまいます。
クリシュナムルティは、じぶんの意志で神智学協会から離れました。けれどその後も、彼を聖者のように崇める人々に囲まれ、莫大な資金援助を受け、高名な指導者であり続けることは捨てられなかった、、、以下の主張を彼自身の人生に照らし合わせて解釈すると、そういうことになります。
彼はじぶんのなりたいものになった。
それでも「愛」があればいい!、と彼はいうでしょう。
たしかにそうです。
わたし達は「愛」によってのみ自由になれる。
それは真実。
ですが、「神」(創造主)や「非物質界」(死後の世界)について教えないクリシュナムルティを、じぶんの先生にはできません。わたしはこれまで通り、「ダスカロスの教え」に沿って学んでいきます。