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スピリチュアルな探究を組織化すると腐敗し、ビジネスにすると劣化する

読み終えました。

とくに疑問に思うところはなく、大師マスターガイドといい換えれば、「ダスカロスの教え」と同系に思えます。

けれど、クリシュナムルティ を救世主として祀り上げようとした レッドビーター(現代なら逮捕されて刑務所行き)がうさん臭すぎて、、、素直に信じる気持ちになれません。

アニーべサント には彼ほどのカルト臭はないですが、彼女の思想や政治信条に同調できなくなったクリシュナムルティは、「真理は集団で追求するものではない」(Wikipedia「アニー・べサント」より引用)といって 神智学協会 を去ったのだとか、、、そして、彼が75歳のとき以下のように述べました。

「他の場所より多く語ったインドでさえ、自分の話を聞いて変化した人はおらず、人々は自分の教えを十分に活用していないし、真剣になっていない、目覚めたものは一人もいない」

Wikipedia 「ジッドゥ・クリシュナムルティ」より引用

それはつまり「じぶんは誰ひとり自由にできなかった」ということですよね? なんだかなーって感じです、、、が、知らずに語ることはできませんので、もう一冊だけ著作を読んでみることにしました。

それでわかったのは、クリシュナムルティは「捨てることを好むということ……彼のいう「捨てるべきもの」とは、信念・教義・既成の概念・知識・理想・指導・精神的指針・模範・儀式・教会・法典・努力・自己鍛錬・祈り・道徳・正義・あらゆる形の霊感・ヨガ・瞑想・師・グル・救世主・神などであり、それらのものから完全に自由であることを求めます。

クリシュナムルティが認めるのはあるがままだけ

知恵の静寂に到達した心は「在ることを知るでしょうし、愛することが何であるかを知るでしょう。は個人的でも、非個人的でもありません。なのであり、排他的あるいは包含的として、心によって定義されたり記述されたりすべきではありません。はそれ自体の永遠性です。それは真実であり、至高であり、測ることのできないものなのです」

「最初で最後の自由」Kindle 版 20ページ
太字化はNoelが実施

理解はあるがままに気づいていることによって生じます。解釈することなしに、非難したり正当化したりすることなしに、あるがままを、実在を、事実を正確に知ることが確かに英知の始まりなのです。私たちが真実を見落とすのは、自分の条件づけ、自分の偏見に従って解釈し、説明し始めるときのみです。結局、それは科学的な調査、研究に似ています。あるものが何であるか、それが何であるかを正確に知ることが確かに英知の始まりなのです。私たちが真実を見落とすのは、自分の条件づけ、自分の偏見に従って解釈し、説明し始めるときのみです。結局、それは科学的な調査、研究に似ています。あるものが何であるか、それが何であるかを正確に知ることは調査、研究を必要とします。自分の気分に従ってそれを説明することはできません。同様に、あるがままを正確に見、観察し、聞き、気づいていることができるなら、そのとき問題は解決されています。そしてそれがこれらの講話すべての中で、私たちがしようとしていることなのです。私はあなたにあるがままを指摘しようとしているのであって、それを自分の気まぐれに従って説明しようとしているのではありません。あなたも自分の背景や訓練に従って説明したり、解釈したりすべきではありません。

それでは、何もかもことごとく、現状のままに気づいていることができるでしょうか? 確かにそこから出発して、理解がありうるのです。あるがままを認め、気づき、見出すことが苦闘を終わらせます。自分が嘘つきであるのを知り、それが自分の認める事実であるなら、そのとき苦闘は終わっています。あるがままの自分を認め、気づいていることが既に英知の始まり、理解の始まりであり、それがあなたを時間から解放するのです。時間という質を持ち込むことは ── 年代順の意味の時間ではなく、手段としての時間、心理的な過程や心(マインド)の過程としての時間 ── 破壊的であり、葛藤を引き起こします。

「最初で最後の自由」Kindle 版 23-24ページ

このへんについては、とくに異論はありません。

要するに、じぶんのパーソナリティーを構成する エレメンタル をすべて自認せよ……ということですよね? しかし、いかなる創造行為にも加担することなく、ひたすらエレメンタルをみつめ続けるだけというのは不可能では? 生命現象は絶え間ない創造と消滅のダイナミックな動きですから。消滅のほうばかりやってると存在が危うくなってしまいます。

クリシュナムルティは、じぶんの意志で神智学協会から離れました。けれどその後も、彼を聖者のように崇める人々に囲まれ莫大な資金援助を受け高名な指導者であり続けることは捨てられなかった、、、以下の主張を彼自身の人生に照らし合わせて解釈すると、そういうことになります。

どのような行為者もないなら、そして結末に向かうどのような行為もないなら、少しも何かになることはありません。しかし私たちが知っているように、生や私たちの日常生活は、何かになるという過程です。私が貧しいなら、私は目的を念頭に置いて行動しますが、それは金持ちになることです。私が醜いなら、私は美しくなりたいのです。従って私の生というのは何かになるという過程です。何かでありたい意志は異なった意識のレベルでの、異なった状態の中での何かでありたい意志であり、その中に挑戦、反応、命名、記録があるのです。さて、この何かになることは紛争であり、この何かになることは苦痛ではないでしょうか? 私はこれであり、そして私はあれになりたい、というのは絶えず続く苦闘です。

従って、そのとき、問題があります。この何かになることのない行為はないのでしょうか? この苦痛のない、この絶えず続く戦いのない行為はないのでしょうか?

「最初で最後の自由」Kindle 版 64ページ
太字化はNoelが実施

彼はじぶんのなりたいものになった

それでも「」があればいい!、と彼はいうでしょう。

たしかにそうです。

わたし達は「」によってのみ自由になれる。

それは真実

ですが、「」(創造主)非物質界」(死後の世界)について教えないクリシュナムルティを、じぶんの先生にはできません。わたしはこれまで通り、「ダスカロスの教え」に沿って学んでいきます。