反出生主義に対する論破は可能か
Googleの検索窓に「反出生主義」と入れると、検索予測に「反出生主義 反論」「反出生主義 論破」と出てくる。私の記憶が正しければ、確か3年前の時点でも同じことが起こっていた。
このちょっとおかしな現象の背景には、単純に論破が難しいものに対する挑戦的な意味もあるのかもしれないけど、たぶん根源には、子供を産み育てたい、家族を築きたい、という人々のエゴがあるように思う。反出生主義みたいな思想が広まってしまったら、生まれてきた or これから生まれてくる子供の存在を否定されているような気持ちになるし、何より自分自身の存在意義も揺らいでしまうから。そういう意味で、反出生主義を「危険思想」であると捉える人がいることも肯ける。「論破」に対する関心は、この思想にモヤモヤを抱える人が多いことの最たる例なのかもしれない。
それでも、残念ながら、反出生主義には議論の余地がない。
わたしが「生まれたくなかった」と思ったから
「生まれたくなかった」と思うのも「産むべきではない」と思うのも、各個人の人生観の範疇であり、もはや実感にすぎない。これらの価値観が、他人に強要されたり、誰かを糾弾する手段となりさえしなければ、人から干渉される道理もない。もちろん、優生思想や、宗教、伝統的家族観などの哲学的・倫理的視点から、反出生主義の是非を問うことはできるけれど、それでも完全な「論破」は不可能である。
例えば、「生まれたくなかった」と言う人を前に、「生まれたことは誰にとっても素晴らしいことだよ!きっと君は本当の幸せを感じたことがないんだよ」と答えるのはこの上ない筋違いだし、「これからもっと良いことあるよ!」も、「生まれたくなかった」後悔に対してなんだか共感力に欠ける。近年、反出生主義を提唱し物議を醸したD. ベネターによる「基本的非対称性の原理」も、超簡略化するならそういうことになる。生まれたくなかった、という感覚は生まれた結果感じるものであり、幸せであろうがなかろうが、この世に存在しなければ始まらない議論である。ほんのわずかでも、生きることにネガティビティがあるのなら、いくばくかのポジティビティに賭けるよりもメリットがある、報われる、と表現するべきか。
そもそも、自分自身の生身の人生経験に基づく思想が、自分以外の人間の人生観によって簡単に覆るのだろうか。確かに、他者や書物の中から自己対話を繰り返し、過去を塗り替えることも可能ではある。「解釈」とも言える。価値観の変容により、過去への評価が変わることは往々にしてある。しかし、いずれにせよ、生の実感は論破云々の対象ではない。
反出生主義者の中にもいくつかの流派があり(これについては後々書きたい)、地球環境や次世代が直面することになる未来への危機感から主義を貫徹する人もいる。彼らに対して、未来志向で楽観的な観点から反論することはできるかもしれない。それは、生まれてしまった事実は変えられない、かといって自殺もできないから、より良く(マシに)していこう、という前向きな姿勢しかり。けれどいずれも、出生そのもの(=「過去」)について嘆くタイプの主義者たちに対して効果的な「論破」とはなり得ない。
そういう意味で、個人体験を拠り所にしたタイプの反出生主義者にとって、「論破」や「議論」はほとんど意味をなさない。最初から眼中にない。そこにあるのは、痛みを伴った「生」の実存だけ。「わたしは、生まれたくなかったと感じている」ということが、思想を支える最大の論拠となるから。
反出生主義の意義
しかし、完全な「論破」はできないとしても、反出生主義の意義を問い続けることはできる。将来への絶望感や、自分たちの「生」を否定されうることへの恐れを一旦括弧に入れてこの主義・思想と真剣に向き合えたなら、わたしたちは人生をもっと奥深く、色濃く、鮮やかに捉えることができるに違いない。生まれてきた意味を問い続けることは、「生」への根源的な欲望であり、「生きながらえてしまった」事実を享受する最も美しい方法であるからだ。
ということで、反出生主義のあれこれについて、堅苦しくなく、エッセイ形式でちょこちょこ書き進めようと思う。自分を反出生主義者だとカテゴリーしたのはここ数年のことであるから、思想体系に関してはあくまで勉強中の身である。ここに書き留める考えも主張も基本的には思案中、というスタンスは明記しておきたい。
※反出生主義の理論、提唱者、支持者、歴史等に関しては、近年ネットでも学術書でも物議を醸しているので、基本情報はここでは省略することとしたい。
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