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「普通」の顔をしながら社会規範を壊すー誰もが生きやすい未来のために

私の持つ、発達障害という弱者性

大学に入って、生まれて初めて経験したアルバイトがきっかけで、私はADHDの診断を受けた。人に打ち明けても「え??どのへんが???」となることがほとんどな、いわゆるグレーゾーン。とはいえ、昨今の「発達障害ブーム」の中でも語られることが増えた、それはそれで難しさのある立場だと感じている。

とにかく、その後のアルバイトでは「気が利かない」の烙印を押され、何度言われても同じミスを繰り返すプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、いずれは「普通」になれるはずだと信じてトラウマと向き合い続けた。もう数えきれないくらい何度も自分を矯正しようと試みたが、今思えばぜんぶただの自傷行為だった。

ただ、大学時代すべてをかけて向き合えたおかげ?で、だれかと短時間一緒にいるくらいならバレない程度に普通「風」に振る舞うことはできるようになったし、気遣いとか気配りとか自分とは無縁だった他人への関心も一応人並みにあることにできている。これはもちろん「障害」が、努力で克服できるようなものだと言っているわけではなくて、自分の持つ「生きづらさ」に気が付くのが今でなくてよかったという意味で。

卒業して就職した職場はとても穏やかで、客観的に見てもそれほど悪くない環境だ。でも、ずっと自分を生きられている心地がしない。ケアレスミスの大嵐で、何から何までひっくり返して、おまけにそのことすら自分で気づいていないこともあって、職場での私はいつも他人に尻拭いをさせている。でも、そういうどうしようもない自分には大学時代に飽きるほど向き合ったし、「障害」の本質とは社会側の「創作物」なわけで、と心の中で開き直っているはずだったのに、時々猛烈に苦しくなる。

厳格な親の元で育てられたせいか、「一人前の人間になるまで自己主張は控えるべきだ」というへんな「常識」が私の中に刷り込まれていて、気がつくと「何もできないくせに態度が大きくてはだめだな」と、身を縮こめて振る舞っている時がある。でもこれは、私だけが縛られている呪いではなさそうだ。時々、本当の自分が滲み出てきてしまうとき、周囲から言葉にならないほどかすかな圧力を感じる。

「わきまえ」なければ受け入れて「もらえない」弱者たち

人に迷惑をかけ続けたことで、ありのままの自分をさらけ出すことが怖くなった。失敗して他人の時間を奪ったからADHDの私に一切の雑談は許されないし、失言して人を不快にしたからADHDの私はしばらく笑ってはいけないし、信頼を裏切りすぎて人間関係を拗らせたからADHDの私はもうこれ以上関係性を悪化させないように空気を読まなければならない…いくつもの理不尽な制約を自分自身にかけて、申し訳なさそうに息をしている時がある。


そもそも「人に迷惑をかけたら申し訳なく思うべきだ」という理論は、それらしい「常識」として蔓延っているけれど、そこには身震いするほど恐ろしい権力構造が隠れている。環境によって生じた障害(ギャップ)のはずなのに、その弊害を被るのは決まって弱者で、なぜか弱者は自分の存在を悪びれて常に許しを請わなければならないことになっている。これは、「お年寄りに席を譲ったのにお礼を言われなかった」とか、「言い方が乱暴だから聞き入れる必要はない」とか、「専用車両があるのに女性が普通車両に乗るのはわがままだ」とか「生活保護受給者はパチンコに行くな」とか、そういう誰もが一度は聞いたことがあるような言説に隠された「ずるさ」とよく似ている。つまりは、許す側と許される側、聞き入れる側とお願いする側、施す側と有り難がる側のように、そこにはなぜか明確な階層があって、断絶されていて、そしていつも一方にだけ責任が押し付けられてしまうということ。これは、クィア研究者の森山至貴著『10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」』や、社会学者のキムジヘ著『差別はたいてい悪意のない人がする:見えない排除に気づくための10章』などの本でも鋭く指摘されていた構造だ。

「わきまえろ」理論でいくと、ミスオンパレードの私に自己主張する権利どころか息をする権利すらないのではないかと思えてくる。何度も間違えて失望と裏切りを繰り返す私には、もう人間でいる権利はないのではないか。勇気を振り絞って自分をさらけ出そうものなら、「何もできないくせに、自分の権利だけは一人前に主張しやがる」と、たぶん規範がそれを許さない。そしてなにより、自分にこびりついている「常識」が、飛び立とうとする私の足首を掴んでくる。

こんなの絶対におかしい。多様性とか平等とか声高に叫ぶくせに、自分に「わきまえる」ことを強いてしまう。それほどに、規範やバイアスは根深い。きっと、同じ基準を他者にもあてがい、無意識的に追い詰めてしまったこともあったのかもしれない。今ならわかる。

みんなの「生きやすさ」を目指す小さな抵抗

こんな社会に生きることが苦しくて、許せなくて、最近少しずつ争っている。毎日、笑ってしまうような小さな出来事のひとつひとつに、ありのまま生きられる生活範囲を拡張していくような、小さな抵抗を繰り返している。意味は違えど、「無理が通れば道理が引っ込む」のイメージ。「道理」とは、一体なんであろうか。日本人独特の「曖昧さ」は、時に狡猾でずるい。

あまりにも小さくて無意味な試みかもしれない。だけど、ここで私が身を引いたら、同じような境遇の誰かにも没個性を強いることにならないか。ここで「普通」に染まったら、権力の横行を温存することにつながらないか。そして、交わることのない上下の層は、この先も永遠に平行線なのだろうか。

全てが自己決定、自己責任の社会を生き続けられる人なんてほんのひと握りの人間だけだ。そのほんのひと握りの人間が、強者の理論で生き続けるためだけに、私たちの苦しみは生み出されている。

長ったらしい文章をここまで読んでくれた人がいれば、ぜひお願いしたいことがある。どうか、「普通」でいることがそこまで苦ではない状況では、「普通」の顔をしながらちょっとずつ世の中の呪いを壊していってほしい。普段は反論できない上司の発言に、「わたしはそうは思いませんけどね」とか言ってみたり、誰かをラベリングしたような内輪ネタのお笑いに対して無表情を貫くとか。セクハラ•パワハラ発言をされている人がいたら、「いまのはマズイと思いますよ...」と空気を乱してみたり。「彼氏いるの?」と聞かれたら、「ああ、パートナーいます」と言い直してみるでもよいと思う。ほんの小さなアクションでも、その余波は計り知れない。

もう少し幅を拡げて、「この国はおかしい」を共有できる仲間とゆるく連帯するとか。とにかく、どうかその特権を、同質の人たちと築く摩擦のないコミュニティの中で持て余すのではなく、規範を撹乱することに使ってほしい。問題の当事者だけが声を上げ続ける状況には、悲しくも限界がある。

偉そうな駄文を垂れ流しているけれど、もちろん私は弱者代表ではないし、置かれる環境によってマイノリティにもマジョリティにもなりうる。むしろ、死ぬまで気づくことのないような特権もたくさん持っているのだと思う。それは、校内ヒエラルキーや、会社の上下関係において、立場が上の人が決まって、「うちにヒエラルキーなんてある?」とか「ここは風通しが良い社風だ」とか言うように。差別や格差構造を意識する必要がなかった、ということこそが特権なのだから。

だから私も、ほとんどの人がそうであるように、流動的に立場を変えながら気付かぬうちに人を傷つけたり、傷つけられたりしている。でも少なくとも、自分が「普通」という特権を有する環境では、できるだけその規範を壊していきたい。それは、差別構造に苦しむ未だ見ぬ誰かのためでもあり、まわりめぐって、いつか私が自分の弱さをわきまえずとも安心できるように。最近出た中島岳志の書名を借りるなら、「思いがけず利他」。

素敵な言葉だ。

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