川の流れのように/江戸雪
毎日のように車の運転をする。買い物、家族の送迎、施設にいる母との面会、たまには当て所もなくドライブもする。つい先日は、家族が忘れたパスポートを届けに関西空港までぶっ飛ばした。
街なかを走っていると月に何度か、多いときで週に一度くらい、サイレンを鳴らして走る救急車や消防車に遭遇する。パトカーのときは、まさか自分が鳴らされてはいまいかとどぎまぎするのだが、今のところパトカーの目標車になったことはない。
サイレンが聞こえると辺りの車は道路の路肩に停止して道をゆずるという決まりがあり、とにかくその緊急車が過ぎてゆくのを待つ。見通しのいい道ではどこから近づいてくるのかすぐに分かるのだが、高架道路や分離帯などで視界がさえぎられているとサイレンの元はなかなか見つからない。耳をすましながら、サイドミラーを覗いたりして所在なくじっとしている。
当然のことながら信号が青になっても動き出す車はなく、緊張感とともに街の動きがぴたりと止まる。
やがて救急車や消防車が通り過ぎると、ゆるやかに車が走り始める。それまでの数十秒。人や車だけでなく時間もが静止しているような、からっぽの時間。緊急事態がおこっているというのに不謹慎なのだが、その静止の時間が実は好きだ。
人生のうちのちょっとした時間、一生ぶん合わせても1時間にもならないような隙間、ブランク、幕間。どんな言葉にも当てはまらない、無の時間。
生活していて、意味のない時間を過ごすというのはあんがい難しい。何かしら目的を持って過ごすのが当たり前になっている今、あの静止の時間は得がたいものだと密かに考えるようになったというわけだ。
いやあ、そもそも、時間とは何でしょう。流れているとしたら、どこからどこに?もしかして時間なんてなくて、一瞬の出来事を〈人生〉とか呼んで勘違いしているだけではないか。
「川の流れのように」という歌謡曲がある。
ああ川の流れのように
ゆるやかにいくつも時代が過ぎて
ああ川の流れのように
とめどなく空が黄昏に染まるだけ
この歌を美空ひばりが語りかけるように歌うのを何度かテレビのVTRで観たことがある。そのたびに身体を地に組み伏せられたように、よく言えば諭されたような気持ちになったものだ。
川はしばしばこの歌詞のように時間に例えられ、やがては人生そのもののように歌われる。そのときの川は、ゆったりと流れる大河である。大きな流れが一定方向に流れ続ける。だれもそれを止めることはできず、そこに身をまかせてゆくしかない、それでいいのだと感じるようにうながされる。
けれど、だ。
それが、雄大な大河が、本当に心の安らかにしてくれるのだろうか。
もちろん、比喩としての大河は人生の苦楽をのみこんでくれる許しそのものであるのかもしれない。けれど、実景としての大河はどうだろう。
水が大きな塊になって上流から下流へと流れていく。考えている時間なんてない。ただ流れている。そこにやはり言いようのない圧力を感じてしまう。
昨日、歌会があった。その会場は川と川の間にある。つまり、川にかかる橋を渡れば歌会会場にたどり着くのである。橋は栴檀木橋(せんだんのきばし)といって、長さは80メートルくらいだろうか。
渡りながら下に流れる土佐堀川をのぞいた。すると水は勝手気ままに流れていた。つまり、下流に向かうところもあれば停滞しているところ、あるいは渦を巻いているところもある。なぜ渦をなしているのか不思議でしばらく水面を眺めていると、うっすら魚が見えた。魚が泳いでいるから水が渦を巻いていたのかは分からない。けれど水は一定にひとつの塊となって迷うことなく流れているわけではなかった。そのことに私はなんだか等身大の自分を投影することができてほっとしたのだった。
この土佐堀川が台風のあと増水し土色の濁流となっているのを見たことがある。そのときはとてつもなく怖かった。もちろん水に呑まれそうだから怖かったのもあるが、それだけではなく、大きな水の塊が一定の速度で同じ方向に流れていくのが怖かった。
身体が怖がると同時に、精神が怖がったのだった。
ずっと同じ方向に、同じように流れていない川。
そんな川に安らぐ。そしてそんな川のようになりたいともおもう。
歌会に行くときに渡ったのが自由気ままな土佐堀川でよかったな。
静止する時間を自然に、つまり緊急車両が街を疾走することなく、手にしながら過ごしたいなとおもう。
何から始めようか。
まずは明日、海に行ってみようか。いや、やはり単純すぎるな、わたしは。