Tagebuch in Münster 5
また間が空いてしまいましたが。
ニースから帰ってきてから、1週間ほど体調を崩してしまいました。
いやはや。なので風邪から復帰してからの日々を。
9月12日 DER TRAFIKANT
体調復帰後からは観劇が続きます。
"DER TRAFIKANT"
https://www.wolfgang-borchert-theater.de/stuecke/der-trafikant.html
「17歳のウィーン フロイト教授人生のレッスン」という映画と同じ原作を取り扱った作品。
1937年のナチス政権下ドイツが舞台。フロイトが迷える少年の指南者として出てくる。
原作の小説はベストセラー作品。内容はあらすじを読んで分かった上で上演を見た。そうでないと、たぶんわからないから。
舞台にはアルミホイルでぐるぐる巻きにされた池のようないたのようものが地上50cmぐらいのところを漂っている。ほかには畳まれた布が点在している。
主人公の母親とそのパートナーとの情事から舞台が始まる。そのパートナーが事故で亡くなってしまい、経済的な支えが無くなった一家は、子供を知り合いのところへ働きに送り出す。
舞台上にある板はパートナーが亡くなると舞台上空へと持ち上げられていく。同時に幕も舞台上空へと上がっていく。
この仕掛けは面白かった。板は綱元で引き上げているのだが、幕は幕上の吊り天に仕掛けられた重りが落ちることで引き上がる仕組みになっていた。幕が下から上に吊り上げっていく様はとてもかっこよかった。
個人的にはそこがピーク演出。
真ん中の丸型の板が回る演出は、照明の効果的にそんなにはまっていなかった。個人的には照明が美術や演技演出と噛み合っていないことが気になってしまった。
主人公の振り回されていく様子や、成長していく様子を丸い板が回ることで表現しているはずなのだが、照明が拡散してしまい、観客の集中が削がれている印象だった。全体的に常に幕に照明が当たるのだが、サイドスポットの影が幕にあたるのがとても気になってしまい、効果的な照明の作り方がもう少しあったのではないかと考えてしまった。
話の内容も2時間程度に収めるために原作のカットがあると思うのだが、どうにもダイジェストになっているような気がして、盛り上がりや興奮がピークに達していなかったように思える。最後に多数の兼役をしていた俳優二人が漫談のように残りの話を進めていく。突然の展開だったが、ここは言葉がわからないと何をしゃべっていたかがわからないので、話し方や観客の反応を見るのにとどめていた。そしてラスト。小説では主人公の最後が描かれていないのだが、どうも今回の終わり方ではその終わり方を示唆しているような感じがした。ここはもっと謎めかせて終わってもいいような、と個人的な好みの問題で頭を悩ませてしまった。
前はロビーでの芝居を見たが、今回は劇場での観劇だった。
ロビーでも上演ができて、奥にはホールもある。ホールそのものはとてもいいブラックボックスだった。一人芝居やれたら楽しそうだなと、ぼんやり考えていた。
観客層は若い世代から上の世代まで幅広かった。ほぼ満席に近かった。
愛されている劇場だな。という羨ましさはあった。
9月14日 The Visitors
ここ数年で見てきた集団ダンス作品のトップオブトップを見た。
Constanza Macras 演出の、15人の若い主人公たちによる演舞に心揺さぶられない人はいないだろう。
彼らは自分の過去・現在を語り、そして身体を通して将来への希望・不安を昇華させていく。
彼ら、とは南アフリカにルーツを持つ主人公たちである。
彼らはホラー映画の話をし始める。ゾンビ映画の話もし始める。
映画の中で殺人鬼に襲われるシーンの再現やゾンビに襲われるシーンの再現は、フィクションのはずなのに、彼ら自身の身に起きている現実の問題にしか思えなくなっていく。
僕は恐ろしい現実を見た。目を覆いたくなるような、画面の向こうがわのような景色が、このとき、現実のものとなって目の前に現れてきた。
彼らは歌う。明るいミュージカルソングを。
明るい曲ほど、苦しい現実が裏側にあるのだと、僕は昔見たメキシコの演劇「アマリロ」で痛いほど学んだ。今回のダンス公演では、それこそ「アマリロ」以来の衝撃だった。
ファッションショーのシーンでは最初は笑顔だったのに、楽しくやっていたはずなのに、途中から苦しみ、泣き始めた。しかしファッションショーは終わらない。見せ物にされている、ということへの哀しみなのか。アイデンティティを奪われていくことへの苦しみなのか。
ゾンビになり、お互いを襲っていくシーンは、分かり合えない人間の性をダイレクトに描いているように感じた。ぶつかっていく。衝突していく。言葉が通じないことへの苛立ちにも見える。本当はこう思っているのに。それも相互に作用している。どちらか一方の問題ではない。双方が抱えている問題として描いている。
圧倒的。僕は涙していた。隣の人も、前の人も涙していた。みんな同じタイミングで。強烈な共感。人間共通の問題なのかもしれない。
スタンディングオベーション。
https://www.ruhrtriennale.de/de/programm/the-visitors/117
9月15日 AM ANFANG WAR DIE WAFFE
Theater Münster の Kleines Haus での観劇。
世界的な銃器製造会社グロック(オーストリア)の創始者であるグロックを祝うために、ナオミ・キャンベルやジョン・トラボルタがやってくる。
彼らが銀幕のスターになるためには欠かせなかっただろうか。
争いを起こしたくない拳銃は博物館へと戻りたがるが、今世界では争いを起こす最前線へと拳銃を戻したがっている。
スクリーンが舞台全面に貼られている。舞台中にはカメラが一台見える。
暗転すると、舞台上を天井から映し出している映像が投影される。その後、舞台上に置いてあるカメラに俳優が一人アップで映し出される。何かを訴えているようだが、この訴えの言葉はこの後何度もポイントで繰り返される。
物語はフィクションだし、登場している実在の俳優たちは俳優たちではない。そんな彼らが拳銃を巡ってなのか、争いを始める。ホームページの注釈に書いてあるのだが、かなり過激な差別シーンらしい。身体でも怪我をしている人に対して、遠慮のない暴力が行われる。人を家畜のように、走れ!走れ!と命令し、その走った後を追いかけ回す。
随所でカメラ演出が入る。俳優がカメラを持って行き、虐待・差別の瞬間を切り取る。さながら映画のように、けれどもそれは映画だったらかっこいいが、映像の向こう側では悲惨な現実が実際に起こっている。映像での切り抜きの演出をやるときは、この報道の切り抜きや、映像技術が向上したことによる見た目の良さなどの問題が浮き彫りになっていく。今回も報道や映像といったことにフューチャーされていた。
しかも、ただ問題を訴えるわけではなく、作り物のような映像の中に、現実的な映像も紛れている。この切り替えは絵的な世界と現実の世界とを交錯させる演出だなと思い、感心していた。
容赦ない暴力が続く中、舞台は終わりを迎える。
舞台というものは作り物のはずなのに、それは現実世界と板の上で繋がっているはずだ。それを信じていいと思わせてくれる作品だった。
舞台は絵的なものの組み合わせのフィクション、で終わることなく、舞台上の世界と、現実の世界とは地平線で繋がっていると、そう信じたくなる。
9月16日 Give peace a chance - Wallenstein
Schauspiel von Friedrich Schiller u. a.
375 Jahre Westfälischer Frieden
作品の出発点にシラーの「ヴァレンシュタイン」が敷かれている。
ヴァレンシュタインは3部構成の作品である。戦争にいく軍隊たちの会話から始まり、ピコローミニ親子の2部へと続き、最後の3部でヴァレンシュタインの死を迎える。
三十年戦争の英雄といわれたヴァレンシュタインの死は三十年戦争を集結へと向かわす糸口ともなった。
本作品はヴァレンシュタインに登場する名台詞„Der Krieg ernährt den Krieg“(戦争は戦争を育てる。)をはじめとした、各シーンの抜粋を立ち上げ、それと並行して現代の戦争に対する思いが出演者たちから語られていくがその意見もまたぶつかっていく。
舞台は張り出しでの芝居から始まる。緞帳の代わりに白幕が垂れている。この白幕を破って舞台奥から現れてくるのは現代の軍人である。張り出しに集められた人たちはみんな舞台奥へと去っていき、彼らは軍隊となって戻ってくる。戦争に駆り出されていく現代の兵隊さながらの様子である。
時折出てくるヴァレンシュタイン抜粋シーンは迫り出し舞台で行われる。ヴァレンシュタイン殺害のシーンではなく、主に会議のシーンだったり、ヴァレンシュタインに関する思いの吐露のシーンだったりと、まさに戦争の裏側を中心に描いた構成となっていた。
作品中は舞台演奏家による演奏が時折入り、それに合わせた合唱や、その演奏が軍歌のようにも聞こえたり、とても良い効果を発揮していた。舞台をともに盛り上げるための音楽のあり方をいまいちど確認させられた。
舞台後方では時折衣類が舞台頭上から落ちてくる。空から降ってくる衣服は、人の死を象徴しているかのようだった。この服が落ちる音が響き渡ると胸が揺さぶられる。
最後には抜粋シーンで演じられていたヴァレンシュタインの世界の登場人物が迫り出し舞台から現代の舞台へと次元を超えて現れる。彼らの語る相手が、物語の中の相手ではなく、我々に変容した瞬間、われわれはこの世界の話と、三十年戦争の世界とが繋がっていることに気付かされる。
身が引き裂かられる思いになる、というよりも、今の世界の現実にやっと自分の身を置くことができた、というような意識だ。
俳優の役割はコメンテーターではないにせよ、世界を語る役割は持っている。物語の言葉はどこに向かって発せられるのか、現代語られる言葉は誰の、誰に対する言葉なのか。背景には何があるのか。シラーがヴァレンシュタインを研究していたように、何かを研究したい欲求に駆られた。
9月17日 Johann Holtrop
さて、Düsseldorf Schauspielhausへと足を運ぶ。デュッセルドルフといえばリトル東京計画がされている、親日代表都市といってもいい。日本祭りが開催されるほどの都市である。
街中には居酒屋やラーメン屋、鮨屋が立ち並ぶ。日本をコンセプトにしたバーも存在した。店員さんのほとんどが日本人である。標識も他では見ることができない日本語訳が書かれている。
懐かしい日本語の表記に、ちょっとした違和感も覚えつつ、劇場へと向かう。
本当はもう一作品見たかったが、当日券も売り切れていたということで、そちらは見ることができなかった。なのでこの日は一本だけ。
舞台は光が差すまで気づかなかったが、糸上のものが舞台上から下まで規則正しくピンと張って垂れている。それは空間をマス目に区切るように上手から下手、手前から奥に張り巡らされている。
舞台は生演奏(ピアノ、ギター、サックス、バイオリン?)による演奏とともに進行していく。現代音楽が流れ、光が下手から上手に差し込む。この時に初めて空間に糸が張り巡らされていることに気が付く。不規則で規則的な反射をする光に空間が歪んでいるようにみえる。俳優たちが舞台後方から作業着に身を包み現れる。糸で格子状に区切られた空間で俳優は清掃を始める。セリフは音楽的な発話をしている。リズムで単語を区切り、意味もだが同時に音としての性質を浮き彫りにさせている。決まりったセリフを、決まったリズムで話す、ということが、労働の単純化・生産性を重視した効率的な動きとリンクしていく。それを10名近い俳優がブレることなく、集団行動的に行うことで、その背景をより浮き彫りにさせてくれる。俳優のクオリティが非常に高くないとできない。
物語はJohann Holtropという実在した人物の物語と、Thomas Middelhoffのことを重ねあわせて進んでいるようだった。富を成し遂げたJohann Holtropの会社内での行いや、会社内で起こる小競り合いが重なって行き、Johann Holtropは突然亡くなってしまう。
こればっかりはやはり言葉がわからないとどうにもわからない。ただし、その音楽的な要素や美術がもたらす効果についてはものすごく考えさせられた。糸が弦にも見え、その弦を越えていかないと人たちは空間を行き来できない。弦が揺れることで音楽が奏でられているようにもみえ、登場人物の生き方そのものが音楽的にもリンクしていくという様は、演出表現として見所の一つではないかとおもった。また、糸を張り巡らせることで照明が立体的に見え、ムービングライトをしようすることで、スモークを焚かなくても、ライトの線や形が見える面白さがあった。奥を当てていたムービングライトが手前に当たりを変える時の移動スピードと俳優の歩行スピードが一致することで、話のスポットライトが移動していることも理解できた。またライトを前面から舞台後方に当てることで、手前の糸に光の形ができる。それが建物に見えるのだ。シンプルだからこそこのような美術の見せ方ができるのかと、感動してしまった。
これはまた見たい。もう少し言葉を理解したならば、また違ってみるかもしれない。次回は11月にあるとのこと。予定をあけておこう。