どこでも生きられるように世界仕様で自分の最適化を進めた結果、日本で超生きにくくなってしまった。これはヤバい。
2020年2月から11月まで、およそ9ヶ月に渡る日本一時帰国を経て、中国深センに戻ってきました。
2週間のホテル隔離生活を終えて、自宅にたどり着くまであと少し。
日本での生活は快適で楽しくて、経験値をガシガシ積み上げて、めったに会えない友人達と最高にくだらない時間を共にして、また新たな出会いや発見にも恵まれて、つまり超充実していました。
「中国帰りたくないな、ずっとこうしていたいな」なんてちょっと思ったりもしました。
そして実際に私の日常である海外生活に戻ってみて。楽しくて充実しまくっていたはずの日本での暮らしから離れて、よーく振り返ってみると、いくつかの違和感をおぼえました。
海外でイチ外国人として生きるときにはさっぱりないのに、日本で日本人として生きようとするとポンっと出現する違和感。これはヤバい。
というわけで今回は、日本人なのに日本で生きづらさをおぼえる違和感について因数分解して考えてみようと思います。
嫌われる勇気、ミニマリズム、マインドフルネス
周りがそれぞれ一斉にしかもバラバラに、とにかく自己主張。
期待は裏切られる、だからはじめからしない。
静かに待ってても誰も見つけてくれない。
うまくいかない前提で物事を進める。
ハプニングありきの毎日。
あきらめる。
気にしない。
海外在住日本人あるある、の日常で身につけるスキルは上記の通りです。もっとありますが、キリがないので。
こういったスキルは奇想天外な毎日を乗り越えていけば自然と身につくはずです。(身につかなかった人は、もう無理! と日本へ帰国します。)
私は、どうしようもない毎日の経験値の積み重ねと同時に、本を読むことでこれらのスキルを強化しました。それが「嫌われる勇気」「ミニマリズム」「マインドフルネス」というキーワードです。関連書はたくさんあります。
嫌われる勇気、というスキルを身につけたら、他人からの評価が全く気にならなくなりました。人間の全ての悩みは人間関係である、から始まるアドラー心理学の入門書です。
「他人の気持ちは変えられない。嫌われてもしょうがない。自分の気持ちを最優先して穏やかに暮らそう」と思うようになったら、反対にどうやったら好かれるようになるのかというアプローチを考えられなくなりました。
同調を求められる大人数での飲み会で、自分は今なにを言えばいいのか、もしくは何も言わなければいいのか、想像がつかないんですよね。
シンガポールや中国でのおしゃべりは、みんな言いたいことを言い合って、スッキリしてハイおしまい、以上です。
「空気読めないよね」とかないんですよね。それぞれの個体差を認めているので、「あなたと私は違う」という前提で話をするから、意見がそろわないのが当たり前です。
日本ではなんだか、違う意見を言ったら「空気読めない」とみなされ、うまくしゃべれないのは申し訳ないなと黙れば「感じ悪い」と言われているような気になりました。
それは根底に「みんな一緒」という連帯感を共有しているからなのかもしれません。
「みんなちがう」という前提で話がしたい私は、そりゃあ空気読めてないよね。
嫌われる勇気を実践しまくったら、どうやらものすごく嫌われたみたいです。ある種の目的達成ではないですか。
日本で200万部以上売れた大ベストセラーなのにな。読んでインプットするのと実際にアウトプットするのはこんなにも差が出てしまうものか。
その次に実践しているのが「ミニマリズム」。
賃貸契約を結んで家具家電一式をそろえる日本の生活とは違って、海外ではシェアハウスの小さな一室で共同生活をするのが私の日常。
保管する場所がないので、物理的な目に見えて触れられる不用品をどんどん捨てます。それが習慣化していくと、その次に目には見えない執着も手放せるようになりました。
その結果、モノにもヒトにも執着することがなくなって、自分から離れていくことを自然に受け入れる自分がいます。
初対面で意気投合して仲良くなった人も、会話が盛り上がっていくうちに「なんか違うな」と思ったら、だんだん心も体も距離が開いていく。
ミニマリズムを徹底しまくった結果、執着する気持ちを手放した私は、他人と距離をもう一度近づける方法が分からなくなりました。
これが日本以外だと、それぞれふらふらしているので、近づいたり離れたりを繰り返しているイメージです。お互いのタイミングが合えば「久しぶり」とふらっと再会する。それが来月なのか来年なのか、はたまた来世なのかは未定というだけで。
海外では自分中心に考えて行動するので、他人に合わせることをマアしません。日本的に言えば「相手の気持ちに立って考えましょう」「思いやりの心を持ちましょう」が、オールゼロの状態です。
他人の気持ちは変えられない、変えるなら自分だけ。
自分がスキルアップをして魅力的な存在になったら、周りを惹きつけるような吸引力とか上がるんでしょうか。
もう一度会いたい人に会うために、今日もメキメキ自己研鑽に励むかな。
ちょっと話が脱線しましたが、ミニマリズムを極めたら強めの孤独感にタッチしました。ひとりで身軽な生活は快適といえば快適だけど、寂しいといえばそうかも。
最後がマインドフルネスです。マインドフルネスとは「イマココ」に意識を集中して、過去の後悔や未来への不安は一旦置いておきましょう、という心の持ち方だと私は認識しています。
「いつになったら自宅に帰れるんだろう」という不安を遠ざけたい一心で、日々の暮らし充実させる方法を試しまくっていた日本での生活。
初めて会う人との楽しい時間を過ごすことだけに集中しまくった結果、その場かぎりの関係になって二度と会うことがなくなってしまったんですよね。毎日が全力投球すぎた。
中国に戻ったら、次はいつ日本に帰って来られるのか分からない。未来のことは誰にも分からないから、今しかないこの時間をめいっぱい楽しもう。
そんな思いで一方的に暑苦しいトークを展開した結果、行きつくところはやっぱり「空気読めない」という周りの評価。そうなんですよね。楽しみたかったんです、私が。
未来の見通しにも、過去の後悔にもとらわれないマインドフルネスを実践する私は、先月のトークを反省することもなく、先週の友人との会話でも見事に撃沈するという。
細かいことは気にしない、ていうかちょっとくらい言葉の意味が通じなくても十分楽しい、そういう良い意味で大らかな、反対の意味でテキトーなコミュニケーションを続けた結果、日本式の細やかな心遣いの応酬ができなくなりました。
できなくなったという自覚があるのがまた悲しい。大らかに、テキトーに、何も気づかない鈍感さをいっそ獲得してしまえたらいいのに。
こんな風に、イマココの自分を俯瞰的にながめるようになったのも、マインドフルネスの効果なんだろうと思います。
「私は今、こんな気持ちにさみしさを感じているんだな」と、ちょっと距離を置いたところから自分で自分を判断する。
そうして自分や周りの人を俯瞰して比較して感じた違い。
会話やおしゃべりにおいて、私のスイッチは電灯をつけたり消したりするときの「ON/OFF」みたいな形をしている。バチバチ何度も切り替えができるけど、点灯しているか消灯しているかの二択。
それに対して、周りの人のスイッチは丸いボリューム調節みたいな形をしている。状況に応じて大きめにしたり小さめにしたり、なめらかに調整できてとてもスマートだ。
同じスイッチなのに、どうしてこうも違うのか。
こんな風に考えるとき、「マインドフルネスめっちゃ上手になってる!」と成長を実感する一方で、「しょうがない」とか「そういうものだ」という割り切りというか、前向きにあきらめる力もぐんぐん伸びている。ちがう、そうじゃない。
もう少し上手に生きたいのに、自分に正直すぎるがあまりものすごく不器用な生き方を選んでませんか、私?
世界中に広がる選択肢を選んだ結果、かえって選択肢が狭まったコーヒーの飲み方
世界での生きやすさを追求した結果におちいった日本での生きづらさは、過去の自分の選択に似ているなと思いました。
大学生の時に、コーヒーが飲めるようになったんです。苦さを美味しいと感じられて、ゴクゴク飲んでました。
それは世界中あちこちで貧乏バックパッカーを始めた時期でもあって、いつもブラックコーヒーを飲むようにしていた。
「砂糖やミルクがない場所に行っても、どこでもすぐにコーヒーが飲めるようにブラックに慣れておけば間違いだろう」と。
なんてスマートなアイディア! 心の中で自画自賛していました。いやどんなジャングルの奥の秘境まで冒険するだったんだよ、と今ならツッコミたいです。
ブラックコーヒーしか飲まない、という選択を繰り返した結果、「砂糖やミルクを入れたらもっと美味しくなりますよ」とすすめられても、砂糖入りやミルク入りのコーヒーを美味しいと感じられなくなったんですよね。
嫌われる勇気、ミニマリズム、マインドフルネス。
周囲の環境に左右されない。余計な期待しない。周りの評価よりも自分の評価を最優先する。自分の意見を持つ。過去の後悔や未来の不安にとらわれない。
自分を楽にするためにメンタル最適化を図ったら、生きるのはラクになりました。何度でも挑戦して、どこまでも自由に突き進むことに毎日ワクワクしています。
世界中のどこでも生きられるように、を突き詰めたら、日本では息苦しさを感じるようになりました。
ひとりで挑戦して突き進んでいくことは、みんなで一緒に穏やかに過ごすことと真逆だってことですね。
みんなちがってみんないい。
どっちが良いとか良くないということじゃないけど、私の選んだ道は日本的なふるまいから大きく離れてしまったんだなと、9ヶ月間で実感しました。
これは成長なのか、それともただ変化しただけなのか。
そのへんのジャッジは割とどうでもいいとして、清々しさと同時にほんのちょっと寂しさもあります。