『ひかりの針がうたふ』黒瀬珂瀾-を読んで
読んだ歌集の感想や、一首鑑賞や、短歌まわりの雑感などを書いてみたいと思いつつ、力が足りなくてなかなかできなかった。未使用のままだったこのnoteを使って挑戦してみたいと思う。
まずは尊敬する ―今の師でもある― 歌人のこの歌集からだ。二日前にひととおり読み終えたばかり。
心惹かれる子育ての歌から。
ゆふぐれの米炊(かし)がむと屈むとき背中に小さき歯を立つる児は
『どうぶつのおやこ』の親はなべて母 乳欲る吾児を宥めあぐねて
おつぱいがかたい、と泣きて寝入りたり父の臀部を揉みしだきつつ
家事・育児能力に男女差などないとわたしは思っているが、ただひとつ、「おっぱいがない」のはいかんともしがたくハンデだ。哺乳瓶や粉ミルクで栄養としての乳はどうとでもなるが、乳児の精神的な安定という役割では代替がきかない。泣く子の様子がありありとうかび、おかしみの底から、やがてかなしみが滲んでくる。
俺にぶら下がるもの指して「うんこでた」。さうだ、捨てたき時もある、これ
飛鯊(とびはぜ)は夕陽へ逃げて朽網川(くさみがわ)しづかなりわれは母になれぬを
妻と子を待つ交差点 孕みえぬ男たること申し訳なし
ここにはもうおかしみはなく、父性、というよりは男性性への違和感のような感情が切に歌われていてどきりとした。
いわゆる「男らしさ」と「女らしさ」は実は同じものでできているとわたしは思っているのだけれど、持っている肉体の特性や、ときには周囲の視線や期待に、どうしても引っ張られる。自由でいたいこころが、ある意味不自由な肉体に容れられる悲しみを抱いているのだと受け取った。
線量を見むと瓦礫を崩すとき泥に染まりしキティ落ち来ぬ
長靴を洗ひし水を持ち帰れ、とぞ言ふ如何に為すかは言はず
七次受け、と聞きたり。そのうち六層は命呑みゆく精霊ならむ
東日本大震災で出た瓦礫の歌、福島の被災地での除染作業の歌にも強く惹かれた。
キティの、おそらくぬいぐるみにことさら目が留まったのは、小さな子を持つ故だったかも。歌人は子が無事に育つよう日々心を砕いているのに、その同じ国の中でこんなことが起こっている。
七次受けとは…つまりそれまでの六層はマージンを受け取るだけなのだろうか?「命呑みゆく」の喩が怒りの深さを語る。
もしかしたら男性性への違和感はここともつながっているのかもしれない。男たちが動かす企業や社会は、便利なものをたくさん作ってもきたが、小さな命のことや弱者のことや危険や理不尽には往々にして目をつぶってもきた。
…などと、たまたま昨日から五輪組織委・森会長の失言まわりのことなどを延々と考えていたのもあって、想像が及んでいった。
育てているのが「娘」であれば、働く妻にふかく寄り添うこころであれば、その違和感はよけいに強く感じることなのかもしれない。
けふひとひまた死なしめず寝かしつけ成人までは六千五百夜/黒瀬珂瀾
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