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変わりゆく死生観〜楽になった生き方〜
変わりゆく死生観〜楽になった生き方〜
何年も難病で寝たきりで過ごしていると、
必要になってくることがある。
それは定期的に『生き方について』考えることである。
生きることについて元気だった頃は考えたこともなかった。
当たり前に健康や命が続いていて、その上に自分の生活があるといった考え方だ。
なので、今となっては生きることについて深く考えなくても生きることができていた元気だった頃の自分に感謝している。
当たり前が当たり前でないと言うことがわかったから。
『幸せとは何か』と考えたときに、今の私に思い浮かぶものは『生きる』ことを考えずに、没頭できる何かに向き合っていられることではないかと思う。
さらには、その『没頭できる何か』が、誰かの喜びになった時、それを『喜び』と言うのであろう。
寝たきりになって、初めの頃は、この状態で生きていても意味がないと思っていた。
どれだけ冷静に考えても、当時の生きる意味は無かった。
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そして数年経つと、少しずつやりたいこともできてきた。生きていたくはないけれど、それを叶えるために「命が必要」だから生きる。…そんな位置付けで、自分の命を遠くから支え続けて、眺めていたのが次の数年間だった。
ところが、この考え方では、病状が苦しい時や、何年たっても変わらない病状を眺め続けるのには苦しすぎることに気づく。
寝たきりになるのには、あまりに早過ぎたのだ。悔しい。
生きることの反対は、死ぬことで、
生きたくないから、死を選ぼうとしてしまう。
ただ、『生きる』と反対に位置するという理由だけで『死』を選ぼうとする。
反対の意味にある言葉で、これほど抽象的な言葉が他にあるだろうか?
今、生きている人の中で、実際に死んだ人はいない。
死んだ人だけが、実際に死んでいるのだ。
『生きる』=『苦しみ』と仮定した時に、
その反対の言葉である『死』は、
『生きる』=『苦しみ』の反対であるから『死』=『楽』である。
…このような構図が出来上がるが、果たしてそうなのだろうか?
確実に『楽』かもわからない『死』を選ぶことで、もうこの世には戻ってこれない。
それが怖い。死ぬのが怖いのではなくて、死んで楽ではなかった時がすごく怖い。
もし死んでも楽じゃなかったら、何のために死んだんだろうと、悩むであろう。
…そんなことを考えているから、結局死ねずに今も生きている。
しかし、苦しい。生きるのは苦しい。
そして、病状的に変わることができないのであれば、生きることについて考え方を変えることにした。
生きることを少しでも楽にする必要があった。
最近の死生観は、
『心と魂』が別にあって、この寝たきりの身体は『自分のものではない』という考え方に行き着いた。
辛すぎて人間離れした。
『人間』であったことから離れたのだ。
肉体と心を完全に乖離させた。
『心と魂』だけが自分自身で、寝たきりのこの身体はいわば住ませてもらっているボロアパートのようなものだ。
病状が辛すぎて、体は自分のものだと思わないことにした。
この痛すぎる体を自分のものだと思うと、辛くなりすぎる。
身体は『借り物。』
貸して頂いている。
…そのように考えてから、死にたいと思わなくなったのだ。
例えば、私は作曲をする。曲を作るのは私であるが、作った曲を聞いてもらえる音にしてくれるのはピアノだ。
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書道作品を作る。作品を作るのは私であるが、考えた作品を文字にしているのはペンとiPadだ。
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そう考えると、ピアノという楽器を弾いてくれているのは自分の手だし、
文字を書いてくれているのも、自分の手だ。
自分の体を私が大切にしている道具の1つだと考えることで、自分の体をいたわることができるようになった。
自分の体を自分だと思わないことで、逆に体を大切にすることができた。
例えるならば、どれだけ辛いと思った時でも、iPadをバキバキに割りたいと思わないし、ピアノをぶっ壊したいとも思わない。
その大事にしている道具の1つとしての感覚を、自分の体に持つことで、辛いから死のうとは思わなくなったのだ。
ロープで括ってしまって使い物にならなくしたり、高いところから落としてバラバラにしてしまうことは、大事な道具を壊すことと同じだ。
大切にしているピアノを壊さないのと同じように、自分の体を大切に思い、道具の1つとして扱う。使わせていただく。
作りたい作品を作るために体を貸していただく。
これができるようになってから、自分の体に感謝するようになった。
『ピアノを弾いてくれてありがとう。』
『字を書いてくれてありがとう。』
『私の作った作品を、形にしてくれてありがとう。』
『思いや考えを文字にしてくれてありがとう。』
自分のやりたかったことを形にしてくれるのは、いつも自分の体だ。
脳を使って、体に指令を送る。
そして、ちゃんと脳と体が連動して、作品が出来上がる。
頭が使えることに感謝して、手が動くことに感謝して、目が見えることに感謝して、耳が聞こえることに感謝する。
当たり前のことかもしれないけれど、それは寝たきりになってから当たり前でないと気づいた。
とんでもなく素晴らしいことなのだ。
病気で寝たきりだけれども、私の体はいろんなことをしてくれる。
そしてもし私が違う人の体に入っていたら、ピアノが弾けなかったかもしれないし、字も書けなかったかもしれない。
だから、たまたまこの身体を『貸して頂いた』ことに今日も感謝している。
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