20200323_
33歳、姉が迎えられなかったひとつめの年に踏み出した。
ことごとく仕事はなくなり、人と何かを約束することがなくなり、次のスケジュールへと急き立てられていたものがなくなり、人と会うこと、遠くへ移動することがなくなってきた。はじめは使っていたSNSをスマホからアプリを消す。
仕事はなくなれど、やらなければならないこと、それはやりたいことでもある物事に取り組みつつ、自分にノックをする。そして読書をする。
実用書は別としても、小説と向き合う時、今までは読書しながらスマホが気になり、ちらちらと見てしまったり、そして何度も同じ文面を繰り返し読まなければ、雑多な思考の言葉に阻まれて言葉を辿っていても文章を捉えることが難しくなっていた。
小さな画面に次々に飛び込んでくる言葉の情報や動く画で、機能として頭と眼が痛くなって見続けることが難しくなってきている。実用書でも小説でも、読んだ後に内容を忘れている。細かく発見したこと感じたことは、SNSのタイムラインのように流れていく。
慣れてしまっていたことに気づかなかった、外には多くの刺激に満ちている。車の音が身体には鋭く降るように感じてきている。読書している時に訪れる音楽もない静かな生活音。読書をしている途中で、スマホやパソコン、テレビなどの画面を見ることもなく、読書に集中しつづけるようになってきた。ようやく、何十年ぶりかもしれない。本当に読むという行為が出来るように感覚が戻ってきている。オンラインでおこなう様々な誘いを断った。埋めつくされてきた生活が、広がっていく生活に。音楽のアルバムを一曲目からじっくり聴けるようになった。いつぶりだろう。静かだ。忘れかけていたやりたかったこと、そして新しい発想がうまれていく。とても静かだ。陸上競技では冬の間レースがあまりないため、走り込みをする。耕すために。その走り込みは冬が明けてからの活動に大きく結びつく。その時のことを思い出している。
今年つくろうとしている作品「夜のひと」は、この生まれた時間によって、その作品の在りように気づかされている。そして、昨年から、ずっとやりたかったかたちに思っていたよりも早く歩を進められるかもしれない。戻るのでもなく、進むのでもなく、もう移ろうと思っている、身体が移っていっている。
コロナウイルスのことによって、今までじつは問題があった様々なこと、価値観、無理があったのに続けれて、そして、いま明らかになった。今でも気づかれていないものも多い気がする。覆われてきたものは重く厚い。個人的にも放っておいてしまったことに取り組む。当事者であることと同時に、一歩引いた目で見る。一歩では足らないと思う。一歩ではなく…舞台で演じるには、3つの目が必要と言われている。演じる者の目、観る者の目、それらをとおくから見ている目…だったような。
誕生日は毎年憂鬱で、日常的にも憂鬱に慣れてしまっているけれども、しかし更に憂鬱に今年の誕生日は生理も相まって、なかなか背中を押されたら躱せることも今日は難しく、一緒にいるKに申し訳なさを感じた。そもそも誕生日と意識しなければそこまで落ち込まないのかもしれない。意識しないようにするということは、同時にそれに囚われることになるから同義だ。
届いた花束、毎年贈ってくれる心、感謝と共に、”その時”をどうにか形に残したいと欲深く思うけど、今にして思えば絵に描くのは良いかもしれない。描く時は写真に映すことが出来なかった時。Kの寝顔を描いた時に気づく。写真では見えたものにならない。出来ることならば、知っているいろんな人達の寝顔を描いてみたい。自意識はどこかに行って、横たわる身体の線はとてもうつくしく現れる。その花達はかわいらしくふくよかに華やいでいた。
今日は走れず、整える方向で身体をつくる。呼吸がしづらくなっていることに気づき、呼吸をもとに身体を伸ばしていく動きをつくる。今日はやさしく身体の流れに委ねるようにする。Kとのやり取りで、踊りは何をもって「終わり」になるのか問われる。今までは終わりというものを感覚的に、作品に耳を傾けるように---着地点をつくっていたけれども、改めて問われると説明できない。そして今まで無意識に捉えていた「終わり」に対して、捉え直す。ノックをしつづける。
義母から、今日は届かなかった花束の報せを聞いて、驚かそうと思っていたのに届かなかったみたいで…と悔やむ言葉に私は泣く。